上海発烏魯木斉行「シルクロード特快」(備忘録)

はじめに
 平成23年12月31日、大厄の本厄の最終日を象徴するかのおうに、デジカメを落としてしまった。落とした場所と時間は把握できているが、いかんせん落とした国が中国であるため、戻ってくることはありえない。
 人間の記憶とは曖昧なもので、長期記憶に残るものはほんのわずかであるし、その根拠も曖昧である。印象的な出来事だからといって、必ずしも心に残るとも限らない。そこで重要なのが、写真という媒体での刺激である。
 しかし、カメラがなくては写真は残せない。よって、デジカメを紛失して以降の行動に関して、私が近い将来にその記憶を失わないために、備忘録としてここに著しておきたい。たいていの旅行記は「簡素に、端的に」しているが、これはあくまでも備忘録であるため、冗長気味になっていることをご了承いただきたい。

@緑皮車とは(天水駅にて撮影)


■2011.12.31
 朝、6時頃に目が覚めたが、もちろん辺りはまだ暗い。しかし、夜の底に広がっているのは昨日見たものとは違っており、明らかに平原らしきものである。空には星が煌めいており、この場で降りて見たらさぞかし綺麗であろうと思わせるものであった。
 6時55分に柳園に到着し、ここで数人の乗客が降りた。いわゆる「敦煌」であり、歴史好きならば感慨深くなるところであろう(私は歴史に疎いのでそうはならなかったが)。7時03分に出発し、列車は再び闇夜の平原の中へと埋もれていった。
 9時少し前に明るくなり始めたため、外の写真でも撮ろうかと思ってレンズを向けたが、まだ外光が少ないためピントが汚れた窓のゴミに集中してしまい、なかなかうまく撮れなかった。そんなことを試行錯誤しているうちに、例の車掌の大行列(弁当箱込み)が通路を過ぎていった。
 路盤は複線であり、右手にある下り線とは頻繁に貨物列車とすれ違う。10分に1本くらいかと思っていると、すぐにまた貨物とすれ違う。「多い場合は5分に1本くらい」と思ってメモを取ろうとすると、その間にまたすれ違うような頻度のこともあった。
 外も明るくなり、果てしなく続く乾燥した平原も徐々に姿を現し始めた。9時半には日が完全に昇り、次第に建物が現れ始め、9時41分には定刻より6分早く哈密(ハミ)に到着した。ある程度の停車時間があるためホームに降りてみたが、上着を羽織らないで降りたため、凄まじい寒さである。銀色に輝く駅名標には、新疆に入ったことを象徴するように、アラビア文字でも地名が著されている。とりあえず先頭車両まで走り、これまで写真に撮れていなかった機関車を写真に収めた。
 ホーム上を戻り、今度は駅の建物を内側から写真に収める。やはりここでも、駅名はアラビア文字でも掲げられていた。
 出発まではまだ時間があるが、いかんせん寒すぎるため(マイナス15度くらいであろうか)、ホーム上で新疆のナン(2枚で5元)を買っただけで駆け足で車両へと戻った。列車は定刻から1分遅れの10時00分に、哈密を出発した。
 外の景色は、相変わらず乾燥した大地である。砂漠のような平原、荒々しい岩山、その合間を縫うように走る送電線ばかりが続くのみである。今年最後の朝日が進行方向右手の後方に昇りかかっていて、そのご来光を写真に収め続けた。

@写真なし(「砂漠に昇る朝日」を想像してください)。

 私のコンパートメントの上段は昨日から誰も乗っておらず、向かい側の下段にいる乗客も、他の車両に知り合いがいるようで半分以上はそちらに行ったきりである。隣りのコンパートメントには中央アジア系の顔立ちの夫婦が乗っていて、その小さな子供が、2つ隣りの部屋のアジア系の子どもとおもちゃで遊び合ったりしている。
 車両端から2番目の部屋には、先ほどから車掌が果物やらお茶やらを特別にデリバリーしている。かなり恭しくノックして部屋に入っていることから、それなりのVIP(政府関係者か、もしくは鉄道省関係の偉い人)が乗っているのだろう。そのうち、車掌や警察、整備関係の人など5人ほどが部屋に入り、その後は件の偉そうな人と一緒に車内の巡回(?)に出かけて行った。
 11を過ぎる頃になると、横風がよほど強くそしてそれを遮る防風林がないためか、風が打ち付ける音が車両に響き続けた。お昼も近くなってきているため、食堂車から出来上がった弁当を売りにやってくる乗務員がいる。今回も利用してもいいが、一度くらいは食堂車を使ってみたいため、買わずに見送ることにした。
 12時少し前になったため、食堂車へ行ってみることにした。4人座席が10個ほど並んでおり、テーブルクロスなどもきちんと供えてある。白衣の男性が近くに立っていたので座っていいかどうか英語で訊いてみたところ、「あー?!」と大声で睨まれてしまった。中国風の手荒いお出迎えだったため、もう一人のおばさんに聞いてみたところ、座っていいようなジェスチャーをしてくれた。「ツァイダン」(メニュー)と尋ねると持ってきてくれたが、紙切れにボールペンで殴り書きしただけの簡素なものである。女性は簡単な英単語ならわかるようで、「ビーフ」だの「ライス」だの指さして教えてくれたので、肉関係の炒め物とライスを指差したが、一番上にある魚関係の30元のものを指差して何やら尋ねてくる。お勧めなのかどうかわからないが、面倒なのでそれにすることにした。
 指差しで注文した料理は、ほんの3分程度で出てきた。もしかしたら彼女は、一つ多く作ってしまって置いてあった魚料理を勧めてきたのかもしれない。それはさておき、魚は一匹丸ごとで、なぜか丼に入っており、濃い目の汁がたっぷりかかったものである。味は悪くなかったが、当然小骨もそのままであり食べるのに難儀してしまった。ライスは中国にありがちな風味のないもの、スープはイマイチであったが、全部合わせて37元なら納得するしかない(街中ならば15元も出せばそれなりの食事が取れるが、列車内料金なのであろう)。いずれにせよ、大平原を眺めながらの食堂車は、日本ではできない経験である。

@写真なし(「荒野を走り抜ける中での食堂車」を想像してください)。

 12時30分に、列車は■善(ピチャン)に到着した。ホームに出てみると、整備員が車軸近くで固まっている氷を鉄のバールで叩いて砕いている。正直言って、あまり近づきたくない光景である。というのも、車両両脇の車軸部分で固まってしまっているのは洗面所やトイレから自然落下している水が凍ってしまったものであり、当然後者には糞尿が含まれており、見るからに茶色いそれがまばらに混ざっている。駅員は平然とそれらをぶっ叩いて破片がそこいらに飛び散っているが、そんなものが私の方に降りかかってきてはたまらない。ワゴンで店を営業している店員は気にしていないようだったが、私は逃げるようにして先頭車両の方へ行き、陽も上がって晴天の下に佇む機関車の写真を何枚か収めた。ここまでは2両連結だったが、どうやらここで1両外されるようである(ここで撮った先頭の機関車の写真は、そのアングルと出来栄えからして、この旅行記のトップページを飾っていたはずである)。
 ピチャンを12時43分に出発し、荒野の砂漠へと戻っていく。走行し続ける複線の路盤以外にも、明らかに旧い路盤と思われるものが所々で垣間見ることができる。その旧い路盤に沿って、廃駅となった施設なども散見できる。宮脇俊三氏が乗車した時分には、あちらの旧い単線の路盤の上を走っていたのだろう。
 これまで30時間も走ってきた割には、ぴったり定刻の14時15分に吐魯番(トルファン)に到着した。ホームの反対側には上り列車に乗る客が待機しており、西方向を見遣ると上り列車が遠くに見える。しばらくすると、2階建て車両を中心にした編成が反対側に入線し、人民がわらわらとそれに乗っていった。
 吐魯番を14時22分に出発し、しばらく荒野を抜けた後、15時頃になるとにわかにトンネルが多くなってきた。これまで雪や氷がほとんどなかったが(気温は低いが、水分がないのだろう)、岩の合間に少しだけ氷も見られるようになってきた。そのトンネルも、短いものが多かったが次第に長いものも多くなり、氷の量も多くなり、中央アジア風のゲルのようなものもあったりして、羊の群れも時々見られる。それまで進行方向右手ばかり見ていたが、ふと反対側を見ると、すぐ手前までに山脈が近づいてきていた。
 路盤の上を見ると、電化の準備が進みつつあった(電柱はすでにあり、あとは架線等を整備するだけである)。その後は、数えきれないくらいの風力発電設備が現れ始めた。
 少しスピードがゆっくりになり、15時半頃には名も知らぬ駅を通過し、その後45分くらいからは、氷ではなく積雪も垣間見られるようになった。高速化により直線が多かった路盤に若干のカーブが多くなり、16時15分過ぎ頃、列車は終着の烏魯木斉に到着した。予想していたよりは、あっけなく長旅は終わったような気がする。

@写真なし(「近づく街並み」「烏魯木斉駅」を想像してください)。

 今日はホテルに行って休むだけであるが、烏魯木斉滞在が1日長くなった分、一足伸ばして列車に乗車してみる予定である。シルクロード特快速に乗車中に、掲示してあった簡易時刻表であれこれ考え、烏魯木斉から西方、カザフスタン国境の中間地点辺りにある奎屯(クイトゥン)まで往復することにした。そのための切符を手配しなければならない。
 見上げるほど巨大な烏魯木斉駅の切符売り場は、出口のすぐ隣りにあった。セキュリティチェックをし、パスポートを見せて入ってみたが、人民で密集していてそれだけで辟易としてしまう有様である。すでに行先等を書いた紙を警備員に見せてどの列にならんだらいいのか聞いたのだが、適当に「このへん」としか指差さない。電光掲示からすると明らかに学生用の窓口のようだったが、中国の駅窓口では掲示の区分は適当だという情報もインターネットであったので、結局適当なところに並ぶことにした。
 30分くらい並んでいたが、並んでいる人たちのうち漢民族は半分くらい、電光掲示にもアラビア文字が含まれていて、喧噪さは中国であるがどことなく東側との違いが感じられる。そのうちに私の番が来て、だまって紙切れを渡すと、往路は无座(無座)であったが、復路は指定も取ることができた。片道約4時間の乗車で、料金はたったの20元ずつである。ただし復路に関しては、出発駅以外で切符を手配する手数料(5元)がさらに必要となる。
 切符を手に入れた後は、地図を片手に歩いて約50分、無事にホテルへと着いた。荷物を置き、夕食を探して繁華街を歩く。百貨店の地下にあるスーパーでビールやら真空パックの肉やらを買い、その近くの露店で串焼きの肉を4本ほど買い、その露店の様子を写真に収めた(これが最後の「撮影」となってしまった)。
 いそいそと部屋に戻り、シャワーを浴びつつ洗濯をし、そのあとにカメラを落としたことにすぐ気づいたが、時すでに遅しである。湯冷めすることも厭わずに慌てて寒空の中を走って戻ったが、中国で人に物を拾われて戻ってくるはずがないのは重々承知である。この日は自棄酒もする気になれず、自責の念もあってあまりよく眠れない夜を過ごした。

■2012.1.1
 明るくなり始めた9時半に、ホテルを出る。明日の奎屯までの切符は持っているが、使い捨てカメラが手に入れば、吐魯番(トルファン)へ逆戻りして写真を撮ることも一案である。そう思って駅方面へ歩き出したが、そもそも使い捨てカメラが手に入るかどうかもわからないし、せっかくこれだけ奥地に来ているのに、先に進まず元に戻るというのも感心できない。よって、写真などどうでもいいから、シルクロードを先へと進むことにした。
 足取りを駅方面から繁華街方面へ修正し、また歩き続ける。高速道路を渡るために歩道橋を通ったが、まだビルの陰にあるものの、この上なく天気が良く最高の「初日の出」である。とにかく、心の中に焼き付けておくことにする。

@写真なし(「烏魯木斉で拝む平成24年の初日の出」を想像してください)。

 さらにホテル方面へ戻っていくと、なんとオート三輪とすれ違ったではないか。日本ではもう見られないが、やはり中国ではまだまだ現役のようである。エンジン音も、単気筒のような荒っぽいドコドコした音であった。
 市街地中心に戻り、紅旗路に電気街があったので使い捨てカメラがないかどうか探したが、少し専門的過ぎる店が多いようで、ちゃんとしたデジカメやパソコンなどしか売っていなかった。小さな店舗が続いており、各店舗が若い従業員をたくさん揃えて呼び込みなどをしているが、こういうことができるということは恐ろしく人件費が安いということなのであろう。今度は大きなビルの店舗に入ってみたが、もう時代遅れなのか、やはり使い捨てカメラは売っていなかった。この店も随分と変わっており、店内には品物越しに鈴なりの定員が並んでおり、狭い通路には15人くらいの鼓笛隊(?)が、一列になって太鼓の音とともに商品の案内をしながら練り歩いている。それに対して客は従業員の4分の1くらいしかおらず、いったいこの国の人件費はどういう形態になっているのかが不思議でならなかった。
 カメラの購入は諦め(500元程度の安いデジカメを買うことも考えたが、どうせ帰国後に買い直すことを考えたら無駄になると思い、諦めた)、市内を歩き回る。大きなビルに入ってみると衣料品店が集まったものであり、むき出しの天井に袋小路状態の通路、そして混雑する人民を目の当たりにして、ここで火事にでもなったらパニックになって大変だろうななどと思ったりした。
 さらに歩き続けると、今度は着ぐるみの呼び込み2体と出会った。ミッキー(みたいな)ものとミニー(みたいな)ものである。大枠は同じであるが、首から下の形がデフォルメされておらず人間ぽいのと、口の開き方などが微妙に(かなり)違っている。

@写真なし(「どこか間違っているミッキーたち」を想像してください)。

 人民公園では人々が集い、青空卓球も盛んに行われていた。雲一つなく広がる大空と、その合間に延びている市政府のビルが印象的である。
 続いて南の方へ歩き始め、国際大バザール方面へと移動する。その一帯に近づくにつれて、新疆名物の羊肉や円形のナンを売る露店が多くなっていく。大バザールに至る名もなき市場では空地の上で肉の解体をしており、その大きさからして羊ではなくラクダであることは一目瞭然であった。ふと下を見ると、ラクダの首だけ(ギロチン)が何気なく置かれており、これはこれで衝撃的であった。
 肝心の国際大バザールはあまり賑わいがなく、二道橋市場もほとんど人けがなかった。もしかしたら2年前の暴動の影響が、まだ残されているのかもしれない。早々に後にして、賑やかだった名も知らぬ市場や露店の並ぶ街角の方へ戻っていった。所々に物乞いが座っているのは中国どこでも同じだが、いかんせん雪が多く、それなのにツルツルの石を歩道に敷いていたりするので、足元が滑って仕様がない。
 さて、新疆に来たからには、羊肉は外せないだろう。中国語が話せれば店で食べることも可能だが、そこまでの語学力はないため、残された選択肢は露店で買うことである。指差しで「イーグァ(一個)」と言えば、なんとかなるだろう。あれこれ歩き、羊肉をぶった切ったものを並べている露店があったので、そこで指差して頼んでみる。一塊を秤に乗せてみると1キロ超えており、さすがに肉をそれだけ食べることは難しいため、身振りで「半分に」とお願いしたところ、包丁でさらに小さくしてくれた。それでも680グラムもあったが、骨も含まれている量であるし、なんとかなると思い購入した(結局、翌日にまたがって食べ分けることになったが)。頼んだ分は丸太の上でさらに細かくぶつ切りにされ、大量のクミンパウダーをかけられて袋詰めされて渡された。

@写真なし(「ラクダのギロチン」「羊肉丸ごと」を想像してください)。

 ホテルに戻ってからは、あとは酔いどれて寝るだけである。しかしその前に、翌日分のビールも買っておこうと思い、スーパーへ出かけることにした。無事購入し、部屋へと戻ろうとして寒空を歩いていると、道端には薄汚れた野良ネコが1匹佇んでいた。夜にはマイナス20度にもなる気候での野良生活は、きっと大変であるに違いない。
 明日は、奎屯に行く予定である。羊肉を齧りつつ、インターネットで何か情報(見どころ)がないかと探したが、ほとんど何も見つけられなかった。シルクロードを辿る旅行などをしている人が、その経由地としてちらっと書いているのを見つけた程度である。公の観光サイトなど当然なく、行く前からして「何もないのだろう」ということは実感できたが、何もないことがわかっていながらあえて行くことこそ重要なのである。

■2012.1.2
 念のために、朝6時15分頃にホテルを出る。こういう時に限って流しのタクシーはすぐに来ず、仕方なく交差点の方まで歩いて行く。焦り始めた頃にやってきたタクシーに、事前に紙に書いておいた「烏魯木斉火車站」(簡体字で)を示して「ウルムチホーチャーチャン」と言ったが、乗車拒否をされてしまった。さらに焦り始め、ほどなくしてやってきたタクシーに同様のことを繰り返すと、頷いてくれた。
 車内であれこれ運転手は話しかけてくるが、いかんせんこちらは中国語もウイグル語(アラビア文字)もできない。途中、ロシア語で「ルースキー」という語が聞こえたので、日本人であることを言い、英語か日本語なら話すということを答えたが、結局共通する言語がなく、その後はお互いに無口になってしまった。駅までは約10分程度、料金はメーターで7元であった。
 2日前に降り立った烏魯木斉駅であるが、中国の駅は出口と入口が別系統になっているため、待合室は初めてである。朝早いため人は多くなく(もう7時前だが、新疆では朝5時くらいの感覚)、待合室は閑散としていた。人の流れとしても、この時間帯に烏魯木斉から奎屯へ行く人も多くないようで、待っているのは15人くらいである。6時50分頃に何やらアナウンスがあったため、私は他の人たちの後ろを付いて行った。
 列車は西安からはるばるやってくる1043次で、車両は一番奥の方のホームに停まっているようである。地下道を歩き、その突き当りには車両案内板(何両目までは左へ、何両目までは右へという案内)があるが、肝心の号車番号が入っていないため用をなしていない。
 階段を上がってみると、そこに停まっていたのは長大な編成の「緑皮車」ではないか! 今回の中国旅行ではこの緑皮車に乗車することも大きな目的であり、なんとか北京近郊で乗れないかと情報収集をしていて、その可能性がある列車番号の当てを付けたりしていた。しかし、それも確実な情報ではないため、乗れる保証はどこにもない。そこで、復路が飛行機になった際に1日余裕ができたため、烏魯木斉から先に行くことによってうまい具合に緑皮車に乗れるのではないかと考えてこの往復を考えたのだが、それが成功したというわけである。切符を車両入口の車掌に見せ、いそいそと入っていく。

@写真なし(「念願だった緑皮車」を想像してください)。

 宛がわれている切符は「无座」(無座)だが、車内は意外に空いており、せいぜい6〜7割の乗車率である。6人ボックスでは寝ている人もいるし、4人ボックスも埋まっていないところもある。私は車両片隅にある4人ボックスの近くに立ち止り、出発を待った(念のため、出発後に座ることにした。)。車内は薄暗く(蛍光灯があるが半分に減光されている)、車掌がほうきで車内を清掃している。車両番号は「YZ 22B 341635」で、定員は112と書かれている。私が立っている反対側の6人ボックスの上には「列車治安■防席」(一部の漢字はネット表示できず)とあるが、そこに座っているのはまったく関係なさそうな田舎のおじさん3人組である。その隣(車両の一番端)も「残疾人■用座席」(同上)とあるが、中国でそのような柔軟性のある発券をしているはずはないので、恐らく意味はないのであろう。
 列車は、定刻の7時11分に出発した。いかにも客車らしいゆったりとした動き出しで、何より懐かしいのが、レールが「ガタンゴトン」という音を立てていることである(烏魯木斉までは90年代に高速化工事が終わっているため、「シャー」という音しかしなかった)。ましてや風格のある(ただ単にボロい)緑皮車だけに、ぜひとも写真や動画で収めておきたいところであるが、これはもう記憶に刻み込むしかないだろう。幼少のころに乗った旧型客車の写真も動画も残していないが、その記憶は残されているのと同様に。
 外が暗いため様子はわからないが、時速40キロほどのゆっくりとした速度で客車は走り続けた。網棚(網ではなくてスチールだが)の荷物も、意外と少ない(先入観かもしれないが、網棚と席の下にはぎっしりと荷物が詰まっているイメージがある)。西安方面からの長距離客は大量の荷物とともに烏魯木斉で降りてしまい、半ば抜け殻のような状態になっているのだろうか。いずれにせよ、4時間も立ったままでいる予定であったから、座れることはありがたい。
 座席は皮のようなもの(プラスチック?)で、座り心地も固く、もちろん隣席との区分もないような代物であり、同じ二等座でも旅程2日目に乗った新幹線のそれとは大きく異なるものである。暖房もないため、室内は冷え切っている。
 反対側のボックスにいるおじさんたちは、あれこれ騒ぎながらトランプを始めている(やはり、公安関係ではないのは確実である)。他に車内で気になることは、降りる準備が意外に早いこと(到着前の10分以上前から荷物を持って出入口に向かう人もいる)、席に座らずにその場で立って外を眺めている人が何人かいること(長時間座りっぱなしで、おしりが痛くなっている?)、などである。そのうちに車速は60キロほどに上がったが、またゆっくりに戻った。
 まだ夜も明けていない割には外が少しだけ明るいが、その理由はすぐ近くに沿い続ける街路等である。烏魯木斉からカザフスタン方面には高速道路も開通しているということであるから、その灯であるのかもしれない。
 最初の停車駅である烏西に近づいてきたが、予想していたよりも大きな駅である。左手には、引込線だけで20本以上ある(奥の方が見えないため、それ以上あるかもしれない)。人間の駆け足程度のゆっくりとしたスピードになり、7時41分に到着した。
 私がいた10号車からは数人が降り、その数+α程度が乗ってきたが、それでもまだ座席の余裕はあり、私はボックスを占領し続けることができた。「无座」の意味がますますわからなくなるが、まぁよしとしよう。

@写真なし(「凍てつくような緑皮車の車内」を想像してください)。

 ほぼ定刻の7時50分に出発――と思ったのは私の勘違いで、動き出していたのはホームの反対側に停まっていた烏魯木斉行であった(客車の場合は発車時の衝撃がないことがあるため、外が見えにくい場合にはありがちな勘違いである)。しばらくは出発する気配もなく、雪が降り続ける中、隣りの食堂車からトントンと包丁が打ち付けられる音だけが響いてくる。そして7時57分、ゆったりとした動きで客車は動き始めた。
 客車内では、車掌だけではなくて警察も行ったり来たりしている。しばらくすると、上海からの特快と同様に、車掌など関係者が弁当箱を持って食堂車へと移動し始めた。弁当箱だけではなく、キャリーバックごと移動している車掌もいる。それも結構造りが良くて新しいものであり、もしかしたらここ中国において鉄道員の地位や収入というのは、意外に良いのかもしれない(人民に対して威張り散らしている辺りからも推察できるのだが)。
 隣りの車両の車掌が、何やら地声でアナウンスをして戻っていった。それに対して何やら大声で訊いている乗客もいたが、双方とも私には内容が理解できない。「次の駅で運行打ち切りです」のような重大なアナウンスだと困るのだが、周りの反応からするにそこまでのものでもないようである。
 ちなみに、隣りの車両の車掌は男である。ロシア(サハリン)に行った際、車掌=女性であり、中国の場合もほぼ同様なのであるが、少数(割合はなんとも言えないが、今回経験した限りでは1〜2割弱程度)は男性の車掌もいるようであった。
 車内は禁煙であり、デッキが喫煙場となっているようであるが、ドアも閉められていないためほとんどそのまま煙が流れてくる。速度は80キロかそれ以上になっているが、まだ外は暗く、いかんせん暖房がないため室内が寒くてならない。だんだんと、足先が冷たくなってきている。
 どうせ外も見えないのだから、寝不足(本日は4時起きである)を解消するためにウトウトしようかと思った矢先、8時20分過ぎであるが、急に車内に大音量の音楽が流れ始めた。車内で音楽が流れるサービス(それも大音量)というのは、これまでにもインドネシアやベトナムで経験があるが、液晶モニターも何もないボロ車両において音だけ流すというのは、今回が初めてである。どうせならローカルな雰囲気をまったりと味わいたいところであるが、台無しでもある。
 これでは寝ることもできないな、と思いつつも、早起きの影響もあって1時間弱ほどうたた寝をすることができた。9時20分頃には外も薄明るくなり、なんとなく景色も見えるようになってきた。烏魯木斉以東は大陸的な大平原であり、降雪もなく草木1本育たないような景色であったが、意外にもこの辺りは耕地であり、整然と区分された土地が連なっていた。耕地の合間には並木や電線もあり、「ここは北海道です」と言われても気づかないような風景である。

@写真なし(「北海道のような風景」を想像してください)。

 9時38分、次の停車駅である石河子に到着した。靄っていて駅前の様子はよくわからないが、何もなさそうなところである。今回の奎屯行を考えたとき、切符の有無によってはこの石河子までの往復も考えていたのだが、そうならなくてよかったと思わず安堵した。
 9時45分に同駅を出発、スピードはさらに速くなった気がするが、それにつけても「寒い」の一言である。この時期、この土地で列車を走らせるのに「暖房なし」とは、明らかに狂気の沙汰であり、音楽などのどうでもいいサービスよりももっと本質的な改善が必要のような気がする。
 次の停車駅の沙湾県には10時15分に到着した。雪も積もっており(烏魯木斉以東では降雪はあまりなく、水の存在感は川の凍結程度であった)、駅付近の様子もなんとなく北海道的である。乗降客も少なく、2分後には出発してしまった。
 それから15分ほど走り続けると、北海道的な耕地が見えなくなり、代わって丘陵が現れ始めた。それらの上には、お墓のような石が点在している。そのような外の様子を眺める乗客は少なく、車内では、何やら大騒ぎしてい中国人、淡々と語りあっているウイグル人などがいるばかりである。場所柄、中央アジア系の顔もちらほらと見ることができる。隣りのボックスで盛り上がっているのが何の話であるか理由はわからないが、次回はある程度の語学を身に着けてからやってこようかと思う。その方が、周囲の状況が色々とわかるだろうし、トラブル時の対処等のリスク・マネージメントにもなるだろう。
 外の景色はまた平らに戻り、今度は耕地ではなく草原のようになっている(その上に雪があるので詳細は不明であるが)。時折動物がちらほらといるのが見えるが、やはり場所柄だろうか、牛ではなくて馬であった。
 ふと気づいたのだが、天井には扇風機すら付いていない。この緑皮車は「夏は蒸し風呂、冬は冷凍庫」と言われているようだが、まさしくその通りなのであろう。扇風機など、車両全体から見れば投資費用としては大した額ではないのだから、そういう最低限のサービスを充実させることが先決であるように思われる。
 右隣のボックスのおじさんたちはその場でタバコを吸い始め、ほどなくしてやってきた若い女性の車掌に大声で怒鳴られてそれを消すように命令されていた。車掌は注意した後、ほうきと塵取りを持ってきてこれ見よがしに掃除をしていった。
 11時頃に車内放送があり、終着駅到着が近づきつつあることが知らされる。そのあと、どういうわけか「蛍の光」が流れ始めたではないか。シチュエーションとしては最適であるとは思うが、帰国後に調べてみたところ、元はスコットランド民謡のこの曲は、日本を経由して中国にも広まっていったようである。いずれにせよ、蛍の光は奎屯到着直前まで流れ続けた。
 ふと窓の外を見上げると、架線がたくさん並んでいるのが見える(つまり、電化は完了しているということである)。烏魯木斉周辺の電化が完了すれば、シルクロードの鉄道はさらに高速化するのかもしれない(もしくは国策として、新幹線を通すということまであるのかもしれない)。
 11時06分、定刻より2分ほど早く、終着駅である奎屯に到着した。ホームは広く、その上には巨大で新しい覆い(天井)が続いている。緑皮車は端から端まで見えないほど連なっており、それを十分に補うホームと天井であるから、その巨大さは「最果ての地」であることを忘れさせるものであった。

@写真なし(「最果ての地に広がる巨大なホーム」を想像してください)。

 そのホーム上を出口に向かって歩き出したが、驚くほどに寒くて体が震えあがってしまった。もちろんマイナス10度を軽く下回る気候であるからなのだが、それはなにもここ奎屯だけではなくて烏魯木斉も同様である。ただ、車内ですっかり芯まで冷えてしまった状態でその環境に投げ出されてしまったので、どうにもならなくなってしまっているのである。
 震えつつも歩き続け、出口から駅舎外へと出た。敷地の外では、プラカードのようなものに行先を書いた呼び込みが、自分たちのバスやタクシーの売り込みを大声でやっている。しんしんと降りしきる雪の中、それらの人の中を抜け、とにかく暖を求めて近場に何かしら(スーパーでもデパートでも)がないか探し始めた。駅舎の待合室に入るのも一つの手だが、そうすると二度と外に出られなくなってしまう(入口で荷物検査等が行われるため)。
 駅から5分ほど歩いた右手に、巨大な建物があったためそこに入ってみた。どうやらインテリア関係(家具や台所用品、寝具など)の小売店が集まっているところであり、まだ営業開始直後のようで品物の清掃などをしている。もちろん買う予定はないが、体が温まるまでその巨大な建物内を歩き回ることにした。
 家具は高級品が多く、大会社の社長室にでも置くような厳かな机なども多い。烏魯木斉市内ならまだしも、この奎屯でこのようなものの需要が多いとはとても思えない。しかし、巨大な建物の中には、インテリア関係の個人店だけで数えきれないほどひしめいている。駅前にスーパーどころかコンビニすらないのに、インテリアショップだけが山ほどある理由はまったく不明である。
 ある程度歩いたところで体も温まったため、その巨大なインテリア・ショッピングセンターの周辺を散策してみる。しばらく歩くと、なんとまたしてもオート三輪があるではないか。しかも1台ではなく、交差点になっているところに5台も停まっている。中にはかなり新しそうな車両もあり、しばらくそれらに見惚れていた。

@写真なし(「辺境の地にあるオート三輪」を想像してください)。

 天気も良く、太陽も上ってきたため少しは寒さも和らいできた。ショッピングセンターの敷地とは違う方向に歩き出してみたが、何かあるような雰囲気もなかったため、駅へと戻ることにした。駅周辺は木々が多く、それらの枝すべてに新雪が積もり、美しい風景になっている。
 巨大な奎屯駅舎へ戻り、入口で切符を確認され、セキュリティチェックを受けて中に入る。中国の駅舎としては定番の手順であるが、ちらほらとしか来ない乗客に対して、入口の係員は10人以上もいる。
 階段を上り、2階にある待合室へと向かう。壁には中国国内の簡易な鉄道路線図が掲げられており、奎屯から北屯へ通じる鉄道が半年前(昨年6月1日)に開通したというニュースがあったのだが、その部分も手書きで書き加えられていた。北屯まで行ってみたい気もするが、そこまで旅程的な危険を冒すのは、私自身がもう少し中国語の会話ができるようになってからにした方がいいだろう。
 出発までまだ1時間以上あるため、待合室内にいる人民は少ない(と言っても50人くらいはいるが)。寒いためラーメンでも、と思っていたが、給湯器はあるものの売店にはラーメンは売っていなかった。ベンチに座り、手持ちのパンを少しかじりながら、パソコンでこの旅行記を少しだけ書き進めた。
 じわじわと待合室内の人民が増え始め、12時30分過ぎには、若い女性の駅員が、乗客がベンチに座ったままの状態で切符に挟みを入れ始めた。寝ている人民に対して駅員は、何かしら大声で怒鳴りつけている。
 私の切符には、16号車の座席番号が書かれている。ということは後ろの方まで歩いて行けるため、車両編成なども確認できそうである。これから乗る列車は奎屯始発なので、座席に関して人民と争いになることもないだろう。
 12時55分、出発の20分前になり、改札が始まった(いつの間にか待合室は人民で溢れ返っている)。指定席だから先を急ぐ必要はないが、大きな荷物を持っている人民はその置き場所を奪うために我先にと争っており、特に荷物がなさそうな人民まで同様に割り込みをしたりしている。ただしこれも、中国全土で見られる光景であるが。
 巨大なホームを歩きながら、長大な緑皮車の編成を数えてみると、荷物車を含めてなんと20両編成であった。奎屯の待合室がいっぱいだったとはいえ、小さい待合室だったからこの長い列車に分散して乗れば大した混雑ではないが、残念ながらほとんどの乗客は二等座(硬座)である。しかも宛がわれている車両にも偏りがあり、16号車に行ってみるとすでに荷物の置き場所争いなどで大混雑であった。

@写真なし(「人民で混雑する緑皮車内」を想像してください)。

 指定された座席は、幸いにも4人ボックス側、しかも進行方向に向かった窓側という、最良のものであった。窓もそこそこ綺麗であり、外の景色もそれなりに見えそうである。車両番号は「YZ 25B 343796」であり、往路で22型、復路で25B型という2種類の緑皮車を経験できたことになった。目の前には中央アジア系の西洋的な顔立ちをした若い女性が座っていて、彼との長い別れになるのか、窓の外の男とずっと手を振ったり携帯の画面を見せたりしている。
 網棚の上は大量の荷物であり、4人ボックスも6人ボックスもほぼ埋まっており、あちこちで大声で何やら話している声が聞こえてきて、これぞまさしく「人民の列車」である。一度でいいからこういう列車を経験してみたかったのだが、今日やっと体験することができた。この状況で3人席の真ん中で進行方向と逆だったりすると目も当てられないが、先述した通りに最良の席を宛がわれている。それにしても、烏魯木斉で切符を購入した際に往路が无座(無座)で復路が指定を取れたのに、無座の方が空いていて、あっさり取れた方が大混雑とは、これまた意味不明である。
 ぴったり定刻の13時15分、列車はゆっくりと奎屯を出発した。次回、いつここに来ることができるかどうかは不明であるが、中国からカザフスタンに抜ける列車に乗ることでもあれば、ここを通過する際には感慨一入になること確実であろう。
 進行方向窓側の席ではあるが、窓の造りがあまり良くなく、隙間から雪がちらちらと舞い込んできてしまう。向かいの女性はカーテンを閉めてしまい、私もしばらく開けていたが限界があるため、同様に閉めてその隙間から外を見ることにした。カーテンを閉めた後の女性は、中国語の勉強(思想的なものに関するテキストみたいなもの)をし始めた。
 しばらく景色を見ていたがそのあと少しだけウトウトしてしまい、気づくと沙湾県に着いていた。14時14分に出発し、私の隣りには、やはりアジア人ぽくない顔立ちの女性が座り、目の前の女性とあれやこれやと長話をし始めた。何語かわからないが、中国語ではないし、ロシア語でもない。おそらくウイグル語なのだろう。

@写真なし(「車内で世間話をする女性たち」を想像してください)。

 外は快晴だが、相変わらず細かい雪片が車内に入り込み続ける。次の石河子には14時47分に到着し、59分に出発した。雪の積もった耕地が続き、車内では、どういうわけか車掌が重そうな麻袋を、引き摺りながら後ろから前の車両へと何度も移動させている。中身は不明であるし、その使途もよくわからない。
 しばらくすると警察が身分証明書の確認に来たが、全員をチェックするわけではなく、申し出ている人に対してだけ機械に身分証を翳して読み込ませている。これも意味不明であるが、自主的にやる人が多いということは、何かしらのメリット(この列車に乗車して移動したことを証明することで、何かしら有利(?)になる)があるのだろう。
 列車は雪原を走り続け、時折、廃駅を通過する。木々が次第に多くなり、その合間には丸々と太った羊が点在している。何度も書いてしつこいと思われるだろうが、やはり北海道的であり、うっかりすると国内を移動しているような感覚に陥ってしまう。
 左手に15本くらいの引込線が見え始めて車両基地が現れ、次第にゆっくりになり、16時39分に烏西に到着した。定刻より11分も早着であり、16号車内の乗客の半分くらいはここで降りてしまい、他の二等座からも結構な数が降りている。
 11分も早着したということで、もしかしたら烏魯木斉にも早く着けることも考えられる。案の定、16時56分に鐘が鳴り、定刻より3分前の59分に出発した。
 出発後、例の大音量音楽が流れ始めた(そういえば、復路ではほとんどの区間でこのうるさい音楽が流れていなかった)。時速20キロ程度の非常にゆっくりとした速度で走り続け、車内の蛍光灯の灯りが付き、烏魯木斉に到着したのは結局定刻より2分遅れの17時32分であった。
 ホテルへ戻り、余った羊肉で一献して、あとは寝るだけである。

■2012.1.3
 烏魯木斉空港へのバスに乗るため、うっすら明るくなり始めた9時20分頃にホテルを出た。事前に調べた限りでは、滞在していたホテルから歩いて約2キロ北西、南航ホテルに行けば無料のシャトルバスがあるらしい(中国南方航空の搭乗券を持っている人に限る)。
 10時少し前にホテルに着き、明らかにそれっぽいミニバンがあったのでEチケットを見せると、フロントに行って交換しろというジェスチャーをする。フロントに行ってみると、30分に1回の発車が近づいていたためか、無料券をくれることなく、そのまま口頭で私を乗せるように伝えてくれた。

@写真なし(「南方航空のボロバス」を想像してください)。

 車内には運転手1人と案内役らしき西洋系の女性1人、他に6人乗っており半分くらい埋まっている。満席だと乗れないという情報もあったため、幸いであった。車両はボロいが、タダと思えばなんてことはない。タクシーに乗れば35〜40元かかるらしいし、言葉も通じない運転手と長時間二人きりというのもしんどいものである。
 ボロバスは烏魯木斉市内を走り続けたが、ふと後ろを見ると、ちょうど朝日が昇り始めているところであった。30分ほど走り、車は団地のような区画に入っていったが、ここで何故か2人降りてしまった。空港関係施設に通う人か、もしくは何かしらの関係者だったのだろう。
 団地を抜けてしばらく走ると、巨大な烏魯木斉空港が見え始めた。まずは最初に国内線ターミナルに到着し、ここで全員が降りたため私もそうしようとすると、運転手が「まだだ」という感じで首を振る。私の見た目と言語が外国人のため国際線ターミナルに連れて行かれてはたまらないので、チケットを見せながら「ベイジーン」と言ってみたが、それでもまだここではないという。仕方なく、言われるがままにすぐ隣にある国際線ターミナルまで連れて行かれていった。
 ターミナルの案内板を見てみると、どうやら国内線の北京行はこちら(国際線)から出ているようである。運転手のおかげで迷うことなく来られたが、もしタクシーで来ていたら国内線の方に行ってしまい困っていた可能性が高い。
 出航までまだ2時間あるが、何があるかわからないため早めにチェックイン手続きを済ませる。カウンターはたくさんあるが係員は1人しかおらず、長蛇の列であったが、次第に係員が増え、待つこと20分ほどで済ませることができた。窓側を希望してみたが、座席番号はHで、いかにも通路っぽい席である。
 広い空港内をぐるっと歩いてみたが、市内より高めの品物を売っている店やファーストフードがある程度で、特に時間をかけるものもないためセキュリティチェックを受けることにした。
 荷物検査入口でパスポート等を提示し、その後は検査を受けることになるが、とてつもなく厳重な体制であった。飲料持込み不可はもちろん、靴を脱ぎ、また体全体を入念に触られて確認される。私は北米や中東に行ったことがないのでそういうところとの比較はできないが、少なくとも私の経験においては、これまでで最も厳しい検査であった。何よりも、これから乗るのは「国内線」であるにも関わらず、この厳しさである。やはり国内移動とはいえ、2年前にあれほど大きな暴動のあった新疆からの移動であるから、国際線以上の厳格さなのだろう(中国から日本への出国なぞ、これに比べると何も検査してないに近い)。
 待合室でしばらく待っていたが、11時50分頃になって人々がざわつき始めたため、そろそろかと思って腰を上げる。搭乗券の案内では26番からとなっていたが、急遽27番へと変わる(この程度で驚いていては中国では生きていけない)。ゲートでは係員がいちいち搭乗券の一部を「もぎる」ため、時間がかかって仕様がない。
 移動用のバスに乗るが、暖房なぞまったく効いていない。運転席は広々としているが、乗客はすし詰め状態になっている。やっとの思いで出発したが、移動したのはわずか50メートル程度であった。しかも、まだ機内準備が出来ていないようで、その場で5分ほど待たされる。どれもこれも日本では信じられないが、中国では当たり前なのだろう。

@写真なし(「使い勝手の悪い空港内バス」を想像してください)。

 ドアが開いて、除雪もあまりされてない凸凹したところを歩く。さてやっと乗れると思いきや、またしても階段の直前で搭乗券の一部を係員がもぎる。元から3分割されている搭乗券の意味がわかったが、そもそもこんなことをする意味はわからない。
 宛がわれた座席は、やはり通路側であった。今日はどうやら満席になるようで、私は早めに乗ったから問題なかったが、後になればなるほど人民たちの大量の荷物を収納することが困難になり、乗務員は右往左往していた。出発の50分も前から搭乗するのは早いなと思っていたが、この状況を見れば納得である。
 12時45分頃に出発準備が整い、機体は滑走路へ向かって動き出した。画面では安全に関する案内が流れているが、テロップ(白地)の背面が白いため、英文がほとんど読めない。そのテープが終わった頃、機体はすでに滑走路脇に到達していたが、混雑のためかしばらくそこで待機することになった。こちらもすることがなく(外もほとんど見えない)、しばらくウトウトとする。
 なんだかんだで、13時09分頃に機体は飛び立った。到着時間は16時20分という案内があり、食事も出るとのことであった。
 さて、離陸してしまえば、せっかくの大地も見えないし何もすることがない。スクリーンでは映画がやっているが、中国語ではわからないし、そもそもイヤホンが全席に揃っていない。隣りの中国人も勝手に私の座席前にあるポケットを漁ったりしていて、お互いに「メーヨウ」と確認し合った。よく見ると、ポケットに置かれている雑誌も座席によってまちまちである。
 機体はボーイング757であり、日本の航空マニアならば垂涎ものであろうが、私はそこまで物好きというわけでもない。しかし他に楽しむ要素もないので、機体内をあれこれ眺めて時間を過ごした。しばらくすると飲み物のサービスがあり、私は劇的に甘いコーヒーをもらって啜り続けた。コップは安物のプラスチックで、どうやら使いまわしているような感じでもある。

@写真なし(「ボーイング757の室内」を想像してください)。

 その後、食事が配られた。ライスかヌードルの選択であり、前者の内容は濃い目のチャーハンと肉の入ったあんかけ。別のボックスには、小さなパン2個と豆とハム、パックに入った搾菜とみかんであった。ライス一式と豆とハムだけ頂き、あとは持ち帰ることにした(後日みかんを口に入れてみたが、甘さのカケラもなくて食べることを断念してしまった)。写真が撮れないため機内食の蓋だけでも切り取って帰ろうかと思ったが、それほど惹かれるものでもなかったので諦めてしまった。食事中に飲み物の追加が来たのでサイダーを頼んだが、コップは代えてくれないため、うっすらとコーヒー風味のサイダーを飲むことになってしまった。
 食事後は、パソコンを立ち上げてこの旅行記を打ち続ける。隣りの中国人カップルから見られてしまうが、漢字だけをかいつまんでもそれほど意味はわからないだろう。旅行記作成に飽きた後は、読めもしない機内誌に目を通す。中国国内の路線図があったが、これ見よがしに南沙諸島と台湾、そして尖閣諸島まで自国領土として記載している辺りに、国家としての強引さが現れているようであった。
 烏魯木斉を出発して約2時間半、機内の画面では座ったままできる体操のデモが流れているが、体操だけでなくツボ押しまで案内しているのが、いかにも中国らしい。
 機内アナウンスがあり、次第に機体が低空になり始め、16時28分に北京空港に着陸した。しかし人民の荷物が大量にあるため、すぐには外に出ることはできない。しばらく時間が過ぎてから寒風の中タラップを降り、ターミナルへはまたバスでの案内となる。バスが動き出したのは50分を過ぎた頃であり、ふと外を見遣ると、ちょうど夕日が沈もうとしているところであった。中国は左右に長い大国でありながら自国内での時差を採用していないため、新疆地方は歪んだ時刻を使用せざるを得ない。よって今日の私は、10時過ぎに朝日を見て、午後5時前に沈む夕日を拝むこととなった。6時間程度しか明るい時間帯がなく、緯度が高い地域ならまだしも、極めて珍しい経験をすることになった。

 北京空港からは、6日前に乗ったばかりの空港連絡鉄道で市内へと移動する。今日も「かぶりつき」だが、運転席には2人の乗務員がいた。片方は車掌のような役割もしているようで、車内放送以外にも、安全確認なのか指差しで前方を確認したりしているが、そもそも安全とはそういうもの(人が多ければいい)ではないだろう。
 東直門に到着後は地下鉄に乗り継ぎ、北京北駅へと行ってみる。というのも、もし明日の列車に空席があれば、八達嶺まで行って万里の長城に日帰り観光でもしようかと思ったためである。
 18時過ぎ頃に真新しい北京北駅に到着したが、なんと地下にある切符売り場はすでに営業を終えてしまっていた。それならそうで諦めて、明日は北京動物園のパンダでも見て癒されそうかと思って外に出ると、地上にある切符売り場はまだ営業しているようで、そちらに入ってみることにした。
 中国の切符売り場はどこも殺伐としているが、この駅は特に顕著であり、横柄な駅員があちこちの窓口で客となじり合っている。私も紙に書いた希望列車を出してみたが、復路の席がないということで、駅員は「あっちに行け」という感じでシッシと手を払った。さすがに私も気分が悪く、さっさと駅を後にした。

@写真なし(「感じの悪い北京北駅」を想像してください)。

 地下鉄で安定門へ行き、事前に予約してあったホテルへチェックインする。荷物を置いてからは近くにある店舗でビールを山ほど買い、それを冷蔵庫で冷やし、久々に冷たいビールでの一献となった。ツマミは、新疆で買ってきた固い固い「ラクダの肉」の真空パック入りである。

■2012.1.4
 日本への飛行機は夕方の出発ということで、今日の目的は、ここ数日の様々な出来事を忘れるために、パンダに癒されるだけである。
 ホテルのチェックアウトが昼までであるため、荷物を置いたまま、朝の7時過ぎに出発する。40分ほどで動物園前に着いたが、人民で大混雑しているかと思いきや、季節的に冬であることと平日であること、また朝も早いことから、非常に閑散としていた。切符売り場も1つしか開いておらず、中に入ってみても人はまばらで、掃除をしている係員だけがあちこちで目立つだけである。パンダ館(別料金必要)は午前8時からということで、それまでは広大な園内を歩き回り、オオカミや草食動物、鳥類やサルなどを見て回った。閉まっている施設も多く、これなら格安の入場料(冬季は10元)も頷ける。
 園内にそれなりに人はいるが、見物をしているというよりは、散歩をしたり体操をしたり、中には太極拳をしている人もいる。正門の切符入り場で年間チケット(失念したがかなり安かった気がする)の案内もあったので、そういうのを利用して公園代わりに利用しているのだろう。
 午後9時前になり、パンダ館に5元を払って入ってみる。ガラス張りの室内では、さっそく2匹のパンダ(少し小さいので、まだ子供であろう)が、ずっとじゃれ合って遊んでいる。彼らは目の前でずっと動き続けているし、日本の動物園ように「先に進んでください」とも言われないため、しばらくそれを見て癒され続けた。しかし団体(明らかに日本人)が邪魔だったので、隣りのブースに移動してみる。ここにも1匹いるが、こちらは落ち着いた感じである。

@写真なし(「じゃれ合うパンダたち」を想像してください)。

 外に出てみると、寒空の下でもう1匹いたが、その子は笹ではなくて人参を齧り続けていた。その隣の建物に入ってみたが、そこには大きな1匹がのそのそと歩いていた。それから最初の建物に戻り、件の団体もいなくなっていたため、じゃれ合う2匹をさらに見続けることにした。
 さて、そろそろ帰ろうかと思い、その建物の裏手に回ってみると、そこにも1匹いて笹を食(は)んでいた。家族連れが近づいてきて「ほら、パンダだよー」と言っているが、この時間帯にわざわざパンダを見に来るのは、日本人しかいないということなのであろう。
 一度ホテルへ戻り、荷物をすべてまとめて次の観光地へと向かう。季節柄寒いため、外にある公園などは食指が動かないため、あれこれ考えた結果として軍事博物館へ行くことにした。ここなら温かいし、なんといっても無料である。展示内容は膨大であったが、詳細に著すほどでもないので、省略することにする。

 北京空港へ鉄道で移動し、チェックイン手続きをする。人生、悪いこともあれば良いこともあるわけで、新年早々からインボラでのビジネスへのアップグレードをしてもらえた。もともとマイルで手にした航空券であるが、ビジネスとエコノミーとの差額を考えれば、無くしたデジカメ程度の金額は軽くカバーできるだろう。
 出発までまだ3時間ほどあるため、ラウンジでまったりとする。肉の東南アジア風炒め物、点心(焼売)でビール(アサヒの中国版)を飲み、続いてジャージャー麺のようなものを作ってもらい、青島ビールを飲み続ける。ビジネスに乗れば良い食事が出るのはわかっていながら、目の前にあるとついつい手を出してしまう。

 16時過ぎに搭乗し、45分頃には機体が動き出した。離陸したのは17時頃であったが、雲一つない快晴であり、西の方の地平線は薄紫色に靄っている。地上の空気が淀んでいるせいなのか、日本で見られる夕日とは、また一味違った色合いであった。眼下に広がる町の灯火も、どことなく赤色が多い気がする。
 しばらくすると、機内食が配膳された。私は洋食を選択したが、メニューは「サーモン香草風味、チキンの中華風酒蒸し、くらげのサラダ、テンダーロインビーフステーキ赤ワインソース添え、サラダ、パン、ストロベリーチーズケーキ、アイスクリーム」である(備忘録であるため、わざわざ記することをご了承ください)。ビジネスにインボラされた際は毎度のことであるが、ついついワインを飲み過ぎてしまう。今回もステーキを切り刻みながら、赤ワインを2本空けてしまった。
 17時48分、アナウンスがあったので左手下を見てみると、大連の市街地が広がっていた。これから朝鮮半島を横切り、羽田にはあと2時間ほどで到着する予定である。波乱続きだった中国行は、やっとその終わりを迎えた。

@写真なし(「大連の灯火」を想像してください)。

 

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