惜別「雷鳥」

■はじめに
 コトバには「語感」というものがある。その要因は、主に音韻のイメージに由るところが大きい。特に固有名詞はそれが顕著であり、たとい会ったことはなくても、「権三郎」さんは厳[いか]つそうだし、「まみ」さんは軟らかい感じがする。ちなみに語感を最大限に利用している(語感しか利用していない)のはオノマトペ(擬音語や擬態語の類)であり、モノが壊れるときは「ガシャーン」や「ドガーン」であり、花びらが舞うときは「ひらひら」や「はらり」である。
 我々は言葉を介して意思疎通を図っているが、そもそも言葉自体には「意味」がない。我々が会話の相手から受け取ってそれを「意味」だと感じているものは、決して相手の言葉によって伝達されたものではなく、音韻や視覚情報(文字など)を頼りに、自分自身の過去の経験だけによって形作っているものなのである(この話については詳細に書けば面白いのであるが、旅行とは何ら関係がないため、これ以降は削除する)。
 それはとにかく、語感である。その言葉自体に意味はなくても、その言葉を聞いただけで抱くイメージというものがある。そして、私ぐらいの世代の人間にとって、大阪から北陸方面に行く列車は「雷鳥」であり、「Rai−chou」という音韻を耳にしても、決して立山連峰で生息しているあの鳥のことは思い浮かべず、何よりもその特急列車の姿を頭に描くのである。
 しかし、それは古[いにしへ]の時代の感覚であるらしい。最近の子どもたちにとって、そのイメージを呼び起こす言葉は「サンダーバード」であるらしい。平成7年にJR西日本が「スーパー雷鳥」に新型車両を導入し、そして平成9年にはそれが「サンダーバード」に改称されたからであるが、未だに私はそれに馴染めないでいる。そもそも、私ぐらいの世代にとって「サンダーバード」の語感は、特急列車ではなく、あのカクカクと不自然な動きをする人形劇以外の何物でもないのである。だから「サンダーバードに乗る」と言われても、いまいちピンと来ない(人形劇は観るものであって、乗るものではない)。乗るなら「雷鳥」である(もちろん、山岳および野鳥好きの方からは異論があるだろう)。
 さてその「雷鳥」であるが、新型車両が増えるにつれて当然減り続け、平成22年3月のダイヤ改正ではついに1往復のみになってしまった。そして今年の3月11日、昭和39年からの長い歴史をもつこの列車名も、その最後の1往復が消えてしまうことになったのである。私は大学と大学院の関係で長いこと関西に住んではいたが、生まれ育ちは東日本中心であるため、特に大きいな思い入れが「雷鳥」にあるわけでもない。しかし、小学生時分から時刻表を愛読していた身としては、関西地方で真っ先に思い浮かぶこの歴史ある特急名が消えてしまうことは名残惜しい。よって、乗りに行くことにした。
 例の如く、最終日とその直前は「ご専門」の方でごった返すことが予想されるため、しんみりと見送るため、2月中の週末の切符を手配しておいた。ついでに、「雷鳥」と同日にその名称が消滅する「タンゴエクスプローラー」も予約しておいた。

@展示イベントの一部


2011年2月26日
 まだ暗いうちに家を出て、羽田空港を7時25分に飛び立つJAL便で小松空港へ飛ぶ。前日に天気予報を調べた限りでは、土曜日だけが晴天であり、それ以降はほぼ雨か雪であった。予想通り、小松空港は快晴に包まれていた。
 「雷鳥」に乗車するのは明日朝であり、今日は特にすることもない。金沢市内や近郊の観光に行ってもいいのだが、石川県へは能登半島を含め仕事でも飽きるほど来ているために、もう行くべき場所もない。あれこれ考え、まずは空港連絡バスを駅の手前で降り、血液センターへと向かった。もちろん献血するためであったが、「1時間半の待ち時間」と言われてしまい、あっさりと諦める。
 予定を繰り上げ、献血後に行こうとしていた金沢港付近へと歩いて向かった。この辺りは、金沢近辺で唯一私が来ていなかったところである。天気も良く、雪もほぼ溶けていたため歩くのに問題はない。港の公園を経由し、醤油蔵が連なる古い街並みを散策し、醤油店の売店で蔵出し生の醤油を、その場で直接瓶に注いでもらって購入したりした。

@港にはレールがたくさんありました(どこで使うもの?)

 さて、それでもまだ11時くらいである。とりあえず大野港バス停からバスに乗り、昼食の選択肢をあれこれ頭の中で巡らせる。金沢のB級グルメといえば、最近徐々に有名になってきた「金沢カレー」であるが、それはもう経験済みである。回転寿司も有名であるが、「金沢でなくては」というインパクトが多少薄い。他には「ハントンライス」や「とんバラ」があるが、B級を通り越してCかD級であり、どうにも足が向かない。
 そんなことを考えながら武蔵ケ辻にバスが近づくと、「ご当地バーガー」という幟があるではないか。とっさの判断で降り、そこに近づいてみる。どうやら能登島のイベントのようで、来る4月から売り出すご当地バーガーを試し売りしているようであった。とりあえず、安い方(といっても400円もしたが)を一つ購う。味はまぁ良かったが、あとは値段設定が再考の余地ありだろう。

@こんなの(遠隔地のため、温泉無料券は辞退)

 それからは、金沢21世紀美術館をまったりと観て、今さらだが茶屋街などを適当に散策。午後4時を過ぎてからは近江町市場が投げ売りタイムになるため、そこで刺身を山ほど買い、駅前にある安ホテルへと向かった。すべて歩いたため、それなりの疲労感である。
 ひとまずチェックインしてからは、金沢駅に向かい、「雷鳥」引退に合わせて催されているパネル展示を見る。そして駅ビル2階にあるスーパーで地の寿司を買って帰った。

@安かったとはいえ、買いすぎ(1人分)。醤油は買って正解

2月27日
 6時半過ぎにホテルを出て、駅へ向かう。まずは、引退イベントとして「雷鳥」乗車車限定で配付されているピンバッジを貰う。それからホームへ上がり、入線を待つ。7時過ぎに、9両編成に増結された「雷鳥」がホームに入って来た。
 廃止まであと2週間あるから大丈夫かと思っていたが、ホーム上はそれなりに混雑している。「ホームでは走らないでください」と繰返しアナウンスされているにも係わらず、それを無視する輩が数多くて若干殺伐とした雰囲気でもあり、もう少し早い時期に来ればよかったかとも思う。

@縁のなかった先頭グリーン車

 定刻の7時10分、金沢を出発した。これに乗るためにわざわざやって来たのであるが、走り出してしまえばいつも通りの風景である。仕事やプライベートで何回見てきたかわからない沿線風景であり、新幹線の高架が工事中であることくらいが目新しいくらいである。
 車内アナウンスでは「車内販売がない」旨を放送している。となると、停車時間もそれぞれ短いことから、北陸地方の駅弁は入手不可能ということである。
 冒頭にオノマトペのことを書いたが、鉄道が走る様態を表現する場合、たいていは「ガタンゴトン」となる。しかしそれは旧い路盤の場合であり、最近はロングレールで敷設されているから、そのような音は実際にはしない。新幹線は当然のこと、サンダーバードに乗っても「シャー」という音がほとんどである。この「雷鳥」もそうであるが、いかんせん車両が旧いために、「カタカタカタ」という音も続いて鳴っている。
 福井、敦賀などに停車していくが、各駅でそれぞれこちらを撮影している人がホーム上にいる。敦賀を過ぎてしばらくすると、当然の如く湖西線に入る。北陸本線は仕事などでかなり乗って来たが、思えば湖西線はしばらくぶりのような気がする。
 近江舞子で寝台特急「日本海」を追い越し、その後は琵琶湖を左手に走り続け、京都には定刻の9時35分に到着した。撮影部隊(?)もかなり賑っている。
 大阪にも、定刻の10時04分に到着した。ホーム上は、やはり彼らで大賑いであった。

@大阪到着

 次に乗るべき「タンゴエクスプローラー」まで1時間ほどあるため、私は阪神百貨店地下へ行って定番の「イカ焼き」を2枚ほど頂いた。その後は駅の売店をうろうろしていたが、新幹線の九州開通を来月に控え、それを記念した菓子パンがあったため、腹は空いていなかったがそれを買ってしまった。

 「タンゴエクスプローラー」は平成2年に登場した特急で、JRの赤字線を受け継いだ第三セクターである北近畿タンゴ鉄道が宮福線の営業を開始したのと同時に走り始めたものである。私は特に思い入れもなく、そもそも今回が初めての乗車であるが、この特急名を聞いて真っ先に思い出すのが宮脇俊三氏のエッセイ「北近畿タンゴ鉄道の陰翳」である。
 この特急が登場して間もない平成3年の冬、氏はこの特急に乗るべく京都へ出かけるが、肝心の新型車両が定期点検中で旧型の特急車両に乗ることになってしまうのである。しかも席は通路側で車内は混んでおり、結局西舞鶴まで乗らずに途中の綾部で降りてしまうのである。
 当時の「タンゴエクスプローラー」は、京都始発で山陰本線を経由していたが、1999年に「タンゴディスカバリー」と運行系統を交換する形で、現在は新大阪発着になっている。当時と共通しているのは車両ぐらいしかないが、件のエッセイの思い出もあり、それが無くなってしまうことから乗っておくことにしたのである。

@これが「タンゴエクスプローラー」

 新大阪始発の「タンゴエクスプローラー1」号の大阪出発は11時10分、その2分前に入線してきた。ホーム上でそれを撮影している人間は、私を含めて4〜5人程度である。「雷鳥」は大人数に撮影され、それを整理する警備員が駅に配置されたりしており、また廃止に関連するイベントも行われていたりしたが、こちらは何もなく人もあまり多くなく簡素なものである。もちろん、歴史の長さなどが影響しているのであろうが。
 車両は3両増結され、6両編成であった。私は宛がわれている3号車に入ったが、車内は70%程度の乗車率であり、それぞれの座席には丹後ちりめんのカバーが掛けられていた。
 定刻に大阪を出発。こちらも「雷鳥」と同様に、走り出してしまえば見慣れた路線風景である。これまでの経験と若干違うのは、ハイデッカー車両であるため少しだけ目線が高いということであろうか。

@車内で新幹線記念のパンを頂く(withパンフレット)

 順調に走り続け、福知山では、こちらも同様に来月で名称が消え去る特急「北近畿」などとすれ違う。ホーム上はやはりマニアたちでそこそこ賑っていたが、いちいち「後ろに下がって!」だの、自分が良い撮影をしたいがための自己中心的な主張を口にする輩がいる。いったい、いつから鉄道ファンはこのような扱い難い人種になってしまったのだろうか。人気列車の撮影に人が群がるのは30年前も同じであったが、あれこれ他人が気を悪くするようなことを口にする人は皆無であったと思う(この点については書きたいことが山ほどあるが、旅行記とはあまり関係ないのでこれも削除する)。

@国鉄色が見られるのは、いつの日までか…

 それはさておき、福知山以降は北近畿タンゴ鉄道の路線に入り、宮津で進行方向が逆になった。前方半分の3両は次の停車駅である天橋立までであったが、切り離されずに回送扱いでそのままであった。男性の年配の車掌は、まだ若い女性の車掌に対して「(JRへの乗り入れが無くなる来月以降は)もうこの6両もないで〜」とホーム上で話している。ちなみに来月のダイヤ改正以降は、この車両はタンゴ鉄道内だけでのリレー特急として使用される予定である。

@見おさめ(?)の6両編成(豊岡到着後)

 天橋立以降は、いかにも山陰というような、長閑な田舎風景になる(その分、赤字が嵩むのであるが)。網野などでカニが目当ての乗客が降り、人が減って閑散とした特急列車は、定刻の14時34分に豊岡に到着した。ここに来るのは3回目くらいであろうか、いつも乗り継ぎが悪く、小一時間ほど待たされる。今日も同様であり、もう見慣れてしまった「カバンの自動販売機」などのある路地を適当に歩いた。
 さて、あとは特急「北近畿」で宝塚に行き、阪急に乗り継いで伊丹空港から東京へ戻るだけである。この特急も来月で名称が消えてしまうが、撮影目的のファンは豊岡駅には見受けられなかった。歴史が浅く、また走行本数も多いからだろうが、しかし車内は城崎温泉帰りと思わしき人々で、ほぼ満席であった。

@貰ったピンバッジはこれ

 

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