【北海道・昔鐡B】平成6年編

■はじめに
 新型コロナウイルスによる自粛期間中の「手持無沙汰」解消としての「北海道・昔鐡」、その第三弾である。
 当時は大学生であり、お金がないことには変わりがないが、精神的にはゆとりのあった時分である。ネガフィルムの宿命で「撮影枚数が少ない」ことと、若気の至りで「妙な観光地で撮影枚数を大量消費している」のが気掛かりではあるが、そこそこ鐡ネタもあったので、今回はこの旅を紹介したい。

@使用した周遊券

■1994.9.7
 親元を離れて兵庫県西宮市にある大学に通っていたため、出発は大阪駅からの急行「きたぐに」である。もちろん、寝台車両に乗るほどの金銭的余裕はない。

■1994.9.8
 朝、新潟駅に到着した。

@JR西日本旧塗装

 その後の詳細は覚えていないが、各駅停車でひたすら北上したはずである(それが証拠に、上記の次の写真は青森駅での快速「海峡」であるが、すでに日が暮れている)。

■1994.9.9
 「海峡」の次の写真は、天塩川である。おそらく、急行「はまなす」の自由席で夜を過ごし(先述の「海峡」は写真を撮っただけ)、特急「宗谷」か「サロベツ」にでも乗り継いだのであろう。
 豊富で下車(3回目の北海道一人旅で3回目の豊富である)。駅付近や、自然公園にあったSL(現在は解体された模様)を写真に収めた。

@SL

 豊富からJRと路線バスを乗り継ぎ、宗谷岬に向かった。路線バスの写真でも撮っていれば今との比較が楽しいであろうが、残念ながらなかった。
 バスで稚内に戻る。今日の寝床は、急行「利尻」である。

■1994.9.10
 札幌から札沼線に乗る。ということで、この日の1葉目は新十津川駅である。まさに来月(2020年5月6日)で営業を終えてしまう札沼線であるが、この時が初訪問であった。
(実は旅行記のこの部分は4月17日に書いていたのだが、夕方のニュースで「札沼線が繰り上げで本日廃止に」とあった。運行最終日には「葬式鉄」と言われる人が日本各地から殺到するため、コロナウイルス対策で廃止を早めたようである)

@今も昔も変わらない(駅も車両も)

 盲腸線であるため、折り返しの列車で札幌方面に戻った。長時間停車があったのか、それとも敢えて途中下車したのかは忘れたが、浦臼での写真があった。JRバスのデザインの古さが時代を物語っている。

@国鉄色そのまま

 札幌到着後は函館本線で深川まで移動し、留萌本線に乗り換える。今は留萌が終着駅である留萌本線であるが(これもいつまで存続するか危ういが)、当時はその先の増毛が終着駅であった。
 増毛町内で数葉の写真を撮ってから、増毛駅に戻ってきた。

@当時の終着駅

 同じルートで、札幌へ戻る(暗闇の中にある時計台の写真あり)。この日は、特急「オホーツク」の夜行(自由席)が寝床である(急行「大雪」は、この2年前に特急「オホーツク」に吸収合併された)。

■1994.9.11
 朝、網走に到着した。写真には2編成の「オホーツク」が映っているが、左側(オリジナル先頭車両のキハ183系)が夜行のはずである。

@揃い踏み

 そのまま、右側に停まっていた「オホーツク」に乗り込み、旭川へと戻った。金銭的に余裕のある今なら間違いなく札幌のホテルに泊まって翌朝に旭川に向かうが、当時(金欠学生)は「いかに夜行列車の自由席で夜を過ごすか」が重要だったのである。
 旭川から宗谷本線で北上し、名寄から深名線に乗り換えた。「北母子里」の標識を含む写真は、半ば偶然であるがよく撮れたと思う。

@沿線に人の気配はない

 深名線は、名寄−朱鞠内と朱鞠内−深川でなぜか運行系統が分けられているため、朱鞠内駅で乗り換えるようになっていた。次の写真はその様子である。

@これが深名線の乗り納め(翌1995年に廃止)

 深川まで移動し、函館本線に乗り換えて旭川へ。この日は旭川にある親戚宅にお世話になった。

■1994.9.12
 この日は、富良野近郊の観光である。写真にはワイン工場やラベンダー畑(ファーム富田)などがあり、かなり時間をかけて普通の観光をしたようである。
 ワイン樽の写真では味気ないし、季節的にラベンダーはまったく咲いていない。ということで、富良野線の中から撮影した写真を掲載したい。

@後方写真

 観光後は、根室本線で釧路方面へ(すでに日の暮れている新得駅前の写真がある)。宿代を浮かすためだけに暗闇の中移動して釧路に向かい、ほぼとんぼ返りで特急「おおぞら」の夜行(急行「まりも」の後継)に乗り換えて夜を過ごした。

■1994.9.13
 札幌からは特急「北斗」に乗り、一路函館へ。

@その途中(降りたわけではなく、車内から撮影)

 函館で江差線(現在の「道南いさりび鉄道」)に乗り換え、渡島当別で下車した。目的は、トラピスト修道院(男子修道院。函館にあり、観光スポットとして有名なトラピスチヌ修道院(女子修道院)とは違う)である。
 といっても単なる観光ではなく、内部を案内してもらうためである。ネットも何もない当時、案内書を見ていたら「往復はがきで申し込めば見学可能(男性のみ)」のようなことが書いてあったため、事前に送付して予約済みである(ちなみに、現在どうなっているのか調べてみたら、未だに往復はがきのようである)。今の若い人は「往復はがき」など知らない人も多いかもしれないが、昔は何かを申し込む際にたまに使ったものである。

@入口

 私はクリスチャンではないが、キリスト教系の総合大学に通っており、また宗教音楽に関連する活動にも参加していたので、それ相応に興味はあった。
 当日は、私以外に関西から来ている2人組の男性(クリスチャン)もいた。結構な時間をかけて、内部を案内された記憶がある。北海道南西沖地震(1993年)で剥がれた天井や、農作業の話(本来は「自給自足」が原則であるため稲作もやってみたが、慣れない作業では収穫量も上がらないため、得意な酪農をやってその収益で必要なものを買うことにしたこと)は、今でも覚えている。

@内部の撮影は禁止(カメラの首掛けが映ってしまった)

 江差線で函館へ戻る。この日の最後の写真は函館駅での特急「北斗」であり、次の日は大沼公園から始まる。普通なら「函館に泊まって翌朝大沼公園に」であろうが、これまでのパターン通り、特急「北斗」で札幌へ向かい、快速「ミッドナイト」で夜を過ごしたのである。

■1994.9.14
 ということで、これまた「3回目の北海道一人旅で3回目の大沼公園」である。大沼公園観光後は、函館市内を歩き回った。

@教会

 観光後は特急「北斗」で札幌に向かい、特急「おおぞら」の夜行で釧路へ向かった(今の私の体力では「夜行の連続(しかも座席)」はもう無理であるが、20代前半だからこそ可能な旅であった)。

■1994.9.15
 釧路に到着。各駅停車(もしくは快速)に乗り換えて、根室まで足を延ばした。駅構内に旧型客車があり(バイクライダー等が利用する「ツーリングトレイン」だった模様)、そこには北方領土に関する絵が描かれてあった。

@思わず撮影

 釧路に戻ってから特急「おおぞら」に乗り、池田へ(初めての北海道旅行に続き、またしてもワイン城に行っている)。
 その後の乗り継ぎは覚えていないが、旭川まで移動して親戚宅にお世話になった。

■1994.9.16
 この日の詳細は不明である(まったく覚えていない)。岩見沢駅ホームにある馬車の写真と、夜の札幌テレビ塔の写真、2葉あるだけである。いずれにせよ、観光後に札幌から特急「おおぞら」の夜行に乗ったのは確実である。

■1994.9.17
 釧路から、釧網本線で北上した。写真には「ノロッコ号」が映っているが、乗ったわけではなく、釧路湿原駅近くにある細岡展望台に行く途中に撮影したものである。

@ノロッコ号

 細岡展望台から湿原の写真を数葉撮り、その後はまた釧網本線で弟子屈駅(現在の摩周駅)へ移動して、そこからバスで摩周湖に向かった。
 摩周湖では、無駄に11葉も写真を撮っている(珍しく人に頼んで自分の写真を撮ったり、リスの写真を撮ったり。この「浪費」が最終日に響くことになる)。
 摩周湖の写真では味気ないので、面白くてつい撮ってしまったこの写真を紹介したい。

@誰が設置?

 摩周湖から、バスで川湯温泉駅へ。有名なホームにある木彫りの熊の写真もあったが、「東京から」のキロ数に惹かれて撮影した写真の方を掲載したい。何気に、後ろに映っているのは昨年(2019年9月)に引退した「クリスタルエクスプレス トマム&サホロ」である。

@手前を意識したので列車はピンボケ

 川湯温泉から釧網本線で再度北上し、臨時駅である原生花園で下車した。季節的に花は咲いていないが、初めての訪問ということもあってここで7葉も写真を撮っている。さすがの私も、やっと「フィルムの残りが少ない」ことに気付いたようである(この時点で残り7枚分。金欠学生にとって、「フィルムあと1本買えばいいじゃん」という考えはない)。

@花のない原生花園

 網走へ移動し、この日は特急「オホーツク」の夜行で夜を過ごした。

■1994.9.18
 札幌から苫小牧に向かい、日高本線で様似へ。JRバスに乗り換えて襟裳岬へ向かった。日高本線の車両など、あれこれ写真を期待したいところであるが、いかんせん「フィルム不足」である。襟裳岬での3枚と、こんなどうでもいい車両側面の写真だけである。

@せめて正面からの写真を

 往路と同じ順路で、札幌へ戻った。寝床は快速「ミッドナイト」である(この日はなぜか指定席を取っていた)。

■1994.9.19
 この日については、完全に謎である。フィルムの残り3枚は、昭和新山らしき山と、札幌駅で撮影した特急「北斗」と「ライラック」である。函館から札幌に移動するだけでは時間が余り過ぎるので、どこかに観光したはずである。
 最後の寝床は、急行「はまなす」である。

@当時はこれが最新型(「ライラック」)

■1994.9.20
 早朝に青森に到着。その後は、特急「白鳥」でひたすら帰るだけである。
 最初の北海道一人旅でも復路に「白鳥」に乗車したが、それは単なるアクセント付けであり、秋田で降りて奥羽本線に乗り換えている。しかし今回は、関西に帰るためずっと乗ることが可能である。
 では「昼行最長特急」である「白鳥」に完乗したのかというと、実は京都で降りている。というのも、新幹線との「乗継割引」を活用して(京都−新大阪だけあえて新幹線に乗る)、特急券を安くするという、金欠学生ならではの考えであった(今ならば、「完乗」に拘って大阪まで乗るであろうし、証拠として指定席も取るはずであるが)。

 上述の通り、「ライラック」を撮影した時点でフィルム切れになったため、復路の写真は1葉もない。そこで、あれこれ昔の資料を漁ったところ、「白鳥」乗車に使用した自由席特急券が出てきた。

@「ミッドナイト」の指定券も出てきた

 

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