【北海道・昔鐡@】昭和61年編

■はじめに
 説明するまでもないが、新型コロナによる外出自粛である。買い物や「必要な近距離移動」などは可能であるが、旅行などは論外である。大人しく、自宅待機である。
 ちなみに、3月最後の週末は「大人鐡」シリーズでJR西日本の「○○のはなし」に乗る予定であり、指定券はもちろん航空券やホテル、大人グルメとして「ふく」のコースまで押さえていたが、列車自体が運休になってしまったため、旅行はキャンセルである。翌週も出雲空港往復の特典航空券を押さえていたが、これも当然自粛でキャンセルである。さらに4/18〜19にかけても、やはり「大人鐡」として「のと里山里海号」(のと鉄道)と「一万三千尺物語」(あいの風とやま鉄道)を予約・決済していたが、これもキャンセルとなってしまった。
 まぁ、それは仕方のないことであるが、手持無沙汰でもある。そこで思いついたのが、偶然にも昨年にかけて「データ化」していた昔のネガフィルム写真である。当時の詳細は覚えていないが、廃線になった路線や今では見かけなくなった車両など、見る人が見ればかなり印象深い写真が多くある。ということで、昔の旅行を記事として仕上げることにした。

 第一弾は、私が高校2年生の時分に行ったものである。今は亡き「周遊券」で行ったものであり、当時はまだ廃止必須の「第二次特定地方交通線」が残っている頃であった。高校の「登校日」の関係で7月末に家に戻る必要があり、乗車できた特定地方交通線の数は限られてしまったが、今思えば登校日など無視してもっと乗ればよかったと後悔している(天北線や羽幌線や広尾線など)。しかし、胆振線や富内線、標津線や湧網線など、あれこれ乗車することはできた。
 当時はネガフィルムであり、デジカメのように「たくさん撮って、いらないものを消す」ということはできなかったため、撮影数はかなり限られている。これについても、「もっと撮っておけばよかった」と思うが、高校生の小遣いでは、買えるフィルムの本数も現像できる枚数も限られていたから、仕様がないであろう。

@札幌駅にて

■1986.7.20
 夏休みの初日、盛岡まで開通していた東北新幹線で終点まで向かい、そこから先は特急「はつかり」に乗車した。車両形式は、憧れの583系である。未だに覚えているのは、青森到着前に前に座っていた中年の男性が「はい」と言ってハードカバーの書籍を渡してきたことである。一瞬理解に苦しんだが、これは直前に渡されていた青函連絡船の乗船名簿を「書きやすく」するために渡してくれたものであった(当然、記入後に本は返した)。

@盛岡駅

 夜中遅くに青森に到着して、青函連絡船の夜行便(夜中12時過ぎに出港し、朝の4時過ぎくらいに函館に入港する便)に乗船した。奮発してグリーン席にしたが、却って寝づらかった思い出がある(船の写真が1枚もないのは残念至極)。
 函館に到着。当時は朝の4時台に、室蘭本線経由で札幌に行く特急「北斗」と函館本線経由で札幌に行く特急「北海」がホームに並んでいたが、私が乗車したのは北海であった。

@今は亡き車両

 初の北海道一人旅でワクワクしつつも、睡眠不足であった記憶はある。寝過ごさないことに気を付けながら、倶知安で下車した。ここで乗り換えるのは、廃止予定の胆振線である。
 1両編成のディーゼルカーで、ゆっくりと走り続ける。どの駅であるか忘れているが、行き違いで長時間停車したので、その様子を写真に収めた。

@どこ駅であろうか

 昭和新山が近づき(この写真は撮っていた)、伊達紋別に到着した。
 室蘭本線や千歳線を経由して、砂川へ。ここから乗るのは、歌志内線である。終着駅である歌志内駅の写真が、1葉だけあった。

@炭鉱なき町

 この後は、どうやら旭川にある親戚の家に泊ったようである。

■1986.7.21
 昼頃に旭川を出発。函館本線で岩見沢まで戻り、幾春別線に乗り換えた(盲腸線を片付けようとしたのであろう。今思えば、「それよりも先に天北線などの乗車を!」と助言したくなるが)。
 長い距離ではないので、終点まではすぐであった。車両の写真もあったが、なぜか2両編成であった。

@今は亡き駅名標

 その後は、札幌へ移動(藻岩山らしき写真がある)。
 宿代を浮かすために夜行列車の自由席が寝床となるが(当時は、札幌から稚内、網走、釧路、函館への夜行列車があった)、いずれも22時過ぎの出発であるため、暇である。ということで、ネガフィルムには夜行急行「利尻」(稚内行)や「大雪」(網走行)などの写真もあった。私が乗ったのは、これである。

@「まりも」(釧路行)

■1986.7.22
 早朝に釧路に到着し、標津線に乗るためにまずは釧網本線に乗り換えた。写真は途中の塘路での1葉である。この駅自体は今もまだあるが、目を引くのが車両の数である(映っているだけでも3両、もしかしたら4両以上あるのかもしれない)。最近は、1両だけでもガラガラの釧網本線であるから、隔世の感である。

@長閑

 標茶で標津線に乗り換え、根室標津へ。ここからは、トドワラへの観光である(もっと「乗り鉄」に徹底すべきであったとは思うが、いかんせん初の北海道一人旅、それまで「案内書」でしか目にしていなかった観光地にどうしても行きたくて、トドワラやサロベツ原生花園、登別温泉などで無駄に時間を過ごしている。これらを省略すればあと3〜4本の廃止予定路線に乗ることができたが…)。トドワラでの写真が、無駄に5葉もある(ある意味、それだけ当時の自分は満足したのであろうから、良しとしよう)。
 路線バスで、根室標津駅に戻った。意外に立派なコンクリートの駅舎である。

@根室標津駅

 標津線に乗り、途中の中標津で下車。ここでまた標津線に乗り換えた(標津線は「イ」の字のように分岐しており、どちらも標津線なのである。
 厚床行の標津線は、この当時から1両だけで数人しか乗っていなかった記憶がある。何もないパイロットファームが印象的であったが、写真は1葉もない。
 厚床から先の移動は記憶にもメモにも残っていないが、釧路駅での特急「おおぞら」と池田のワイン城の写真があるため、釧路まで行ってから特急に乗って池田観光して釧路に戻り、おそらく急行「まりも」に乗って夜を明かしたのであろう。

@「おおぞら」

■1986.7.23
 札幌から苫小牧へ移動し、そこから日高本線で鵡川へ。ここで富内線に乗り換えた。
 高台っぽい路盤から景色を見下ろしていたことと、車内は意外に女子高生で混んでいたこと、また別の若い旅行者がビデオ撮影をしていたこと(当時はかなり珍しい)を覚えている。富内線の寿命は短く、日高町まで延伸開業されたのが1964年、そしてこの年の11月には廃止されてしまったから、たったの22年間である。
 車内で車掌からもらった記念乗車があったので、途中駅や終着駅で買った切符と一緒にデジカメで撮影。

@硬券

 結構な時間を要して、終着の日高町に到着した。周囲には、これといったものはなかった記憶がある。

@雨

 お金がないため、旅行中の食事は基本的にはパンなどの安物で済ませていたが、この時は珍しく苫小牧で駅弁を買っていた。駅の待合室でそれを広げたら、業務委託らしきおばさんが「はいどうぞ」と言って湯のみでお茶を出してくれた記憶がある。
 今ならば弁当などの写真をあれこれ撮るが、当然そんなものはない。しかし、駅舎の写真はあったので、それを掲載したい(25年後くらいにここを訪問したことがあるが、跡形もなくなっていた)。

@日高町駅

 鵡川まで戻り、苫小牧経由で札幌に戻った。写真はないが、この日は急行「大雪」の自由席で夜を明かしたはずである。

■1986.7.24
 網走に到着し、湧網線へ。乗車したこと自体は覚えてるが、連日の「夜行自由席(座席)」のため、かなりウトウトとしてしまった記憶がある。
 中湧別に到着し、ここで名寄本線に乗り換える。

@写真があった

 中湧別を出発し、途中の興部からは内陸へと向かっていった。名寄本線乗車中の写真は1葉もないが、峠越え(天北峠)区間でディーゼルカーがうんうん唸っているので運転席を覗いたら、時速30キロ未満であったのを覚えている。
 名寄に到着。ここで急行「天北」と偶然出会ったので、慌てて撮影した。

@できれば乗りたかった

 その後は、旭川へ移動し親戚宅へ。

■1986.7.25
 この日は、従妹に車を運転してもらって旭川近郊(富良野含む)の観光である。何度も書いているように「観光は省略して廃止予定路線の乗車を」と思うのは今だからであって、当時はこれも重要な要素であったのだろう。
 写真はないが、唯我独尊(有名なカレー屋)に行った記憶がある。この当時から、ボロボロの家であった。

@北海道中心標(富良野小学校)

■1986.7.26
 この日も、中途半端な観光である。札幌と小樽経由で余市まで移動し、バスで美国まで行った。特に何もない場所であるが、積丹半島への異様な憧れが、このような意味不明の行動をさせたようである(今ならば、羽幌線乗車を選択したであろうが)。
 小樽運河などを観光してから札幌に戻ってきたが、ここで当時としては珍しい観光車両「アルファコンチネンタルエクスプレス」が入線していたので、慌てて撮影をした。

@リゾート特急の先駆者的存在

 急行「利尻」の自由席に乗り、夜を明かす。

■1986.7.27
 稚内に到着してから、豊富まで戻り、バスで「サロベツ原生花園」や「大規模草地農場」へ行った(あれだけ拘っていた割には、写真は1葉もない)。
 再度国鉄で稚内に戻るが、途中の抜海でお座敷列車とすれ違ったので、その写真は残っていた。

@こんな車両

 なお、手元には「南稚内から声問行」の乗車券がある。おそらく、天北線に乗れなかったことは当時の私も「思うところ」があったようであり、たぶん南稚内で途中下車してこれを購入したのであろう。
 稚内に行き、ノシャップ岬や稚内公園を観光。稚内公園の写真がなぜか9葉もあるのはご愛敬である。

@そのうちの1葉

 急行「礼文」で旭川に移動し、親戚宅へ。

■1986.7.28
 この日もまた、観光である。旭川観光の後、登別へ移動して温泉旅館に宿泊。登別で一番大きな宿であり、高校生にはふさわしくない宿泊地であるが、どうしても泊まりたかったのであろう。

■1986.7.29
 まずは、登別観光である。登別と言えば、当時から「クマ牧場」である。

@今と変わらず

 木彫りの熊をお土産として買い、バスと国鉄を使って札幌へ移動した。この日は、札幌にある親戚宅でお世話になった。

■1986.7.30
 この日は、大沼公園の観光をして函館に向かい、夜行の青函連絡船に乗ることになっている。
 しかし、前日の夕方とこの日の出発前に、札幌駅でたくさんの特急・急行列車の写真を撮影していた。「北海」「まりも」「天北」「おおぞら」は紹介済みであるため、それ以外の写真を掲載したい。

@「おおとり」


@「宗谷」


@「オホーツク」


@「北斗」(改造型先頭車両)

 上記以外にもいくつかあったが、食傷気味になるので省略したい。
 特急「北斗」に乗り、大沼公園へ。途中のことはほとんど覚えていないが、噴火湾の様子はなんとなく覚えている。

@大沼公園

 大沼公園観光後は、国鉄で函館へ移動し、まずは五稜郭などを観光。青函連絡船の出航は夜中であるため、暗くなってからはバスで(あえてロープウェーではなく)函館山に登って夜景を堪能した。

@素人にはこれが限度

 往路と同様に、24時過ぎに出港する青函連絡船のグリーン席に乗り込んだ(なぜか復路も船の写真はまったくなし)。

■1986.7.31
 4時過ぎに青森に到着。復路は変化をつけて、奥羽本線経由で戻ることにしている。まずは、「昼行最長特急」であった「白鳥」に乗り、秋田まで移動した。

@反対側はボンネット車両であったが、ピンボケ(よってこちらで)

 続いては、特急「つばさ」で福島へ。下車した瞬間にむわっとした湿度が体に纏わりついたことを覚えている(それだけ、北海道は涼しかったということである)。
 新幹線で宇都宮(当時の所在地)に戻り、旅行は終了である。

 もし旅程を今作成したら、うまいこと詰め込んであと数本の廃止予定路線に乗ることができたであろう。しかし、それはそれ、当時の私にとっては「北海道観光」も重要な要素(長年の夢)であったのだろうから、これで良かったこととしよう。

@フィルムの最後はこんな写真でした

 

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