九州の上半分を彷徨してみる

■はじめに
 2月2週目の週末は建国記念の日を含む三連休となっているが、当然飛行機の価格設定は高くなっている。どこか安く行けるところはないかと探したら、北九州空港行の便が安かったので、それを前もって確保しておいた。安かったのは、福岡空港と比べて地味な立地のせいかもしれないし、特に往路は羽田発6時05分なので、時間的にこれに搭乗できる人が限られていたからなのであろう。
 その後は九州内のどこへ行くかについて悩んだが、未乗の私鉄が若干あるのと、以前乗車してからずいぶんご無沙汰な私鉄(第三セクター含む)もあるので、それらを訪問することにした。使用する切符は、「旅名人の九州満喫きっぷ」であり、九州内の全鉄道(私鉄を含む)に3日乗車できるものである。

@全くの初乗車はこれのみ

■2013.2.9
 最寄駅を朝5時過ぎに出る京急に乗車し、羽田着は5時30分。北九州行の便はJ-AIR運行のエンブラエル170という小さな機体であるが、もしかしたら初めて搭乗する機体かもしれない。若干遅れて飛び立ち、北九州空港には8時頃に到着した。
 すぐに連絡する空港バスで最寄りのJR駅である朽網へ行き、件の切符を購入した。8時36分発の列車で小倉へと向かう。
 小倉からは、北九州モノレールに初乗車する。小倉はこれまで何度も訪問済みの町であり、モノレールの存在も当然知っていたが、なぜか乗る機会がなかったものである(沿線に訪問したい施設もないため)。今回は私鉄も乗り放題の切符を持っているため、やっと乗車する気になったのである。

@出発前

 モノレールとしては歴史あるものであるため、設備等はそれなりに旧い。運転室内の造りや連絡用の大きな電話など、時代を感じさせるものであった。
 走り出したモノレールは、小倉の町中を走っていく。立客もちらほらいた車内であるが、競馬場前でほとんどが下車してしまい、急に閑散としてしまった。
 運転手の後ろに陣取り、終着の企救丘まで乗り通す。すぐに折り返しても面白くないので、しばらく駅付近を歩いてモノレールの車庫などを外から見て回った。

@整備工場等

 モノレールで小倉まで戻り、駅弁を買って快速列車に乗り込む。乗り換えの鳥栖まで2時間弱あるが、早起き+満腹+沿線に刺激がないという理由で、かなりの時間を寝入ってしまった。
 鳥栖で乗り換え肥前山口へ、さらに佐世保行に乗り換えて、有田着は13時34分であった。乗り換えに多少の時間があるので、しばらく駅周辺の陶磁器屋などを見て回った。

@やきものの街(有田駅にて)

 さて、これから乗車するのは第三セクターの松浦鉄道である。乗車したことはあるのだが、それが何時頃だったのかは正確には思い出せない。デジカメで保存している旅行データにはないので、恐らく1990年代の中頃だったかと思う。
 ホームへ行ってみると、車両は意外と新しいものであった。車内の乗客は十人弱であるが、他の第三セクターの惨状からすれば、土曜の昼でこれなら悪い数字ではない。

@久々に

 定刻の14時00分に、有田を出発した。心なしか、JRの沿線よりも長閑な雰囲気である。旧い駅舎(蔵宿駅)なども、それに花を添えている感じである。
 スイッチバックとなる伊万里で、佐世保行に乗り換えた。その後は小さな駅に小まめに停まっていき、しばらくすると右手には海も見え始めてきた。

@海に沿う

 松浦を過ぎ、本州最西端の駅であるたびら平戸口を過ぎると南下を始め、縁起の良い駅名である大学を過ぎ、家屋が多くなりビルが目立ち始めると佐世保に到着である。
 久々の佐世保であるが、駅ビルにスーパーがあったので、そこで地の刺身を入手しておいた。その後JRに乗り換え、川棚まで移動し、駅近くにある安ホテルに投宿。

■2013.2.10
 今日は島原鉄道や南阿蘇鉄道に久々に乗る予定であり、そのためにはまず南下するのであるが、少し寄り道をするために北上することにしている。
 川棚を7時30分に出る列車で2駅ほど佐世保方面へ戻り、南風崎(はえのさき)駅で降りた。この駅に来るのは15年ぶりくらいであるが、相変わらずの閑散具合である。

@南風崎駅

 1992年にわずか900メートル隣りにハウステンボス駅が出来たため、ただでさえローカルな駅が余計その存在価値を失ってしまっており、1日の乗降客は20人に満たないということである。しかし、この駅は歴史上重要な意味を担っている。
 第二次世界大戦後、戦地からの復員者や引揚者が検疫等を受けるための施設「佐世保引揚援護局」がこの近くにあり、そして復員者等が故郷へ帰るための長距離列車が出発したのがこの南風崎駅なのである。戦後の時刻表には、南風崎や早岐と東京を結ぶ“引揚列車”が数年間も掲載されていた。
 駅に設置されている案内板によると、戦後の日本への引揚者総数は629万人、そのうち佐世保港への引揚者数は140万人弱を占めていたという。引揚列車の総数は、1,685本であったとのこと。

@今はただの無人駅

 誰もいない駅の探索は3分で終了した。このまま快速列車の停まらないこの駅で待っていても時間の無駄なので、隣りにあるハウステンボス駅まで国道を歩いて行くことにした。歩くこと15分、戦争とは縁もゆかりもないような雰囲気のハウステンボスに到着した。
 ところで、入り江が多くて複雑な地形だらけのこの地に、引揚援護局のような広大な土地を必要とする施設をどうやって設置したのかを疑問に思う方がいるかもしれない。感の良い人なら察しが付くであろうが、まさにハウステンボスこそが引揚援護局の跡地なのである。

@歴史を学ぶとイベントも楽しめない?(ハウステンボス駅舎より)

 同駅を8時12分に出発する快速「シーサイドライナー」に乗車し、しばらくは入り江に沿って蛇行しながら走っていった。天気も良く、車窓からの眺めは申し分ない。

@車窓としては上位の部類

 諫早で降り、島原鉄道に乗り換える。この鉄道には数年前に乗ったばかりであるが、その頃は終着駅が加津佐であった。2008年4月に一部が廃止されてしまい、現在は島原外港までになってしまっている。
 車内は意外に混んでおり、立客で通路もそれなりに埋まっていた。私はロングシートの片隅に座っていたが、陽気も良くてついウトウトとしてしまった。
 乗客のほとんどは島原で降りてしまい、車庫のある南島原でさらに減って4人程度になってしまった。南島原から先はスピードも遅くなり、「おまけ」のような感覚である。
 島原外港に到着後、歩いて島原港へ向かった。陸路を大迂回すると熊本に行くだけで夕方になってしまうので、船でショートカットするためである。

@フェリーから雲仙を望む

 カモメを見飽きた後は船内でぼんやりと海を眺め続け、12時10分に熊本港に到着した。待合室や売店は、ゆるキャラの「くまモン」尽くしである。連絡するバスの出発まで55分もあるので、それらを見て時間を潰した。
 路線バスで熊本駅へ行き、JRを乗り継いで立野へとやってきた。次に乗るべきは南阿蘇鉄道であり、恐らく十数年ぶりの乗車である(バイクやレンタカーでこの辺りに来た際に、駅などに寄ったことはあるが)。

@これまた久々

 15時30分に出発した1両のディーゼルカーに身を任せ、阿蘇の雄大な景色の中を走り続けた。車内の乗客は6人程度であり、その半分は「鐡専門」の方である。
 そのうち、日本一長い駅名として知られる「南阿蘇水の生まれる里白水高原」に到着した。私は以前、バイクツーリングで九州に来た際にここの駅舎脇で野宿をした経験がある。
 じきに、阿蘇の外輪山に阻まれるかのようにして終着の高森に到着した。折り返しまで14分しかないので、駅付近にあるSLなどを見学したら終了である。

@どん詰まり

 南阿蘇鉄道とJRを乗り継ぎ、新水前寺からは熊本市電に乗り換え、熊本市内の繁華街にある1泊2,500円の安ホテルに投宿した。

■2013.2.11
 早朝にチェックアウトし、辛島町電停から上熊本駅行の始発に乗り込んだ。熊本駅に行かずにこちらの系統に乗車したのには理由があり、新幹線開通後の上熊本駅に再訪してみたかったからである。
 上熊本駅の歴史は古く、また明治29年には夏目漱石が教師として赴任した際に初めて降り立った駅としても有名である。その二代目駅舎は大正2年の普請であり、以前私が漱石の跡を辿る旅行をした際にも印象に残っているものなのだが、新幹線の開通によって駅舎が取り壊されることになってしまったのである。
 幸いにも保存されることとなり、熊本市電の上熊本駅に移築されたが、全部が移築されることはなく、建物の正面だけの移築となってしまった。横から見ると映画のセットのようで拍子抜けしてしまうが、正面から見ると多少は誤魔化せるかもしれない。

@漱石先生(銅像)はどう思うか(こちらから見ると、駅舎に違和感はない)

 駅舎を眺めてから、仮設住宅のような上熊本駅へ向かう。すぐ隣りには熊本電鉄の「青ガエル」車両が停まっておりぜひ乗ってみたいが、これに乗ってしまうとこれ以降の旅程に支障が出てしまうので諦めなければならない。
 7時28分の列車で北上し、大牟田で西鉄に乗り換える。特急の天神行は猛烈なスピードで快走し(速度が速いというよりは、古い車両が全速力で走っているという感じ)、私は途中の大善寺で甘木行の各駅停車に乗り換えた。

@思えば、西鉄に乗るのも久々である

 途中駅の宮の陣から分岐し、大牟田線とは雰囲気も大きく変わった甘木線をのんびりと走って行った。終着駅の甘木も、小ぢんまりとして良い駅舎である。
 甘木駅からしばらく歩き、甘木鉄道の甘木駅へと向かった。甘木鉄道自体は1度だけ乗車したことがあるが、2006年7月に発生した災害の影響で部分的に不通となっていた時期に、一部代行バスを経由して乗車したのであった。今回、初めて全線を通して乗ることができる。
 甘木駅にある車両は、それぞれ橙や青色、緑色に綺麗に塗り直されたものもあった。私がこれから乗るのは、緑のそれである。

@鮮やかな緑

 列車は定刻の10時14分に出発した。甘木鉄道は経営に苦しむ第三セクターが多い中、最も営業成績が優秀な部類である(2006年の災害発生までは黒字を出し続けており、災害後も第三セクターとしては赤字は最少額とのこと)。車内の乗客は十数人であるが、祝日の午前中としては充分な数字であろう(ちなみに、先ほどの西鉄甘木線では、終着駅到着時は私以外は親子連れ1組しか乗っていなかった)。
 終着の基山で降り、隣接するJRに乗り換える。1時間と少し乗車し、黒崎で下車した。次に乗るべきは筑豊電鉄で、これまた十年以上ご無沙汰にしているものである。

@やはり久々に

 筑豊直方行は12時36分発だが、それまで待っていても仕様がないので、12時24分発の筑豊中間行に乗り込む。路面電車のような車両に揺られて、途中駅の筑豊中間では辺りに何もなかったのでスーパーで適当に時間を潰し、続いてやってきた筑豊直方行に乗り込んだ。
 終着駅の筑豊直方は、住宅街の中に飛び出すように設置されている。そこから10分ほど歩いて、JR直方駅までやってきた。2〜3度来たことがあるはずだが、再開発によって駅舎を含めて大きく変わっており、前回の訪問を思い出すことはできなかった。
 さて、次に乗るのは平成筑豊鉄道である。私は3回くらいは乗車したことがあるのだが、今日は「伊田線開業120周年」ということで、臨時列車の運行やイベント(出店など)を開催するということで、あえて熊本電鉄などをパスしてやってきたのである。

@イベント用(車内には過去の歴史的写真の展示あり)

 臨時列車は、定刻の13時25分に出発した。停車駅が限られているため、地元の子らしい男の子が「初めて○○駅を通過した〜」と声を上げている。
 終着の金田には、13時39分に到着した。出店が色々とあったので、鶏のから揚げを買ってつまみつつ、お土産に白菜の漬物としょうがの漬物を買った(すべて、120周年に因んで120円)。
 折り返しの臨時列車に乗り込み、直方へと戻った。JRの乗車時間まで20分ほどあったので駅近くの商店街を覗いたのだが、驚くほどの「シャッター商店街」であった。私は寂れた商店街を歩くのが好きなのだが、今日の場合はあまりにも閉店率が高く、少し物悲しくなりそうであった。

@味があるといえばあるのですが

 現在、地方全体が衰弱化しているが、この地域は炭坑の閉鎖と共に昭和後期からずっと衰退し続けているので、尚更なのであろう。
 しかし、所々開いている飲食店などは、まるで50年近くタイムスリップしたかのような味のある店構えであったりして、時間があれば入ってみたいところもちらほらあった。
 さて、後は北九州空港まで行き、17時00分の便で東京へ戻るだけである。

 

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