惜別「きたぐに」「日本海」

■はじめに
 急行「きたぐに」のルーツは古いが、そのイメージが固定化した(夜行化した)のは昭和43年であり、当時は大阪から青森までの長距離急行であった。そして昭和57年からは、現在のように新潟までの走行区間となっている(昭和60年からは電車化)。その歴史もさることながら、使用されている車両が、私にとっては思い入れが深い。
 車両の形式(○○系)に疎い私であるが、この583系だけは例外である。小中学生の時分には東北本線を走る特急に憧れてよく見に行っていたが、画一的でヘッドマーク以外は特徴の差がなかった当時の車両群の中で、特に際立っていたのがこの583系なのである。
 「特急=赤と肌色」という概念とは対極にある青色、そして高い天井などが特異的であったからなのだが、そもそもそうなっている理由は、この車両が昼夜兼用であるためである。つまり、昼間は座席特急として走行し、夜間は寝台に組み立てて夜行寝台特急として運用される、ということなのである。現在はそのような運用(昼夜で組み立て分ける)ことはしていないが、私が小さかった頃は、583系による昼間特急の「はつかり」が、その屋根に東北地方で積み上げた雪を乗せたまま関東平野を走っていったものであった。高校生時分には(その頃は盛岡までの新幹線が開通していた)、盛岡から青森までの連絡特急に格下げされた「はつかり」ではあったが、念願の583系に初めて乗車することもできた。
 現在、この車両が定期運用されているのは「きたぐに」だけである。そしてその運命もあと2か月程となり、例によって例のごとく、廃止直前になると専門の方々で「殺伐」としてしまうため、早めに出かけることにした。

@きたぐに(大阪駅にて)

■2012.1.13
 仕事を定時で引き上げ、いったん家に戻ってから、東京発20時12分の上越新幹線で新潟へと向かう。外の景色も見えないため、ひたすら本を読んで過ごした。
 新潟駅の売店でビールなどを購入し、「きたぐに」の入線を待つ。最近の夜行列車は出発直前の入線が多いが、この列車は30分ほど前に入ってくるため、余裕をもって撮影などもできる。22時25分過ぎくらいに、「きたぐに」はゆっくりと入線してきた。

@新潟駅案内

 廃止までまだ期間があることもあるが、廃止に伴う鉄道ファンたちの「狂想曲」もそれほどでもなく、それらしき方々も疎らである。車内に入ってみたが、自由席はガラガラで、寝台にも数えるほどしか人がいなかった。
 グリーン車やA寝台なども観察してから、指定されているB寝台へと向かった。私が取っておいたのは8号車の11番の中段、一部の人からは「パン下」と表現される特等席である。

@三段式のB寝台

 583系の設計はかなり旧いため、B寝台は今となっては時代遅れの三段式であり、もちろん日本国内最後のものである。しかも、海外のような大型の車両の三段式ならまだしも、国内サイズであるため、その高さは76センチ(下段)や68センチ(中・上段)であり、とても上体を起こすことができない代物なのである(皆さんの座高を想像していただきたい)。私は以前に、この「きたぐに」のB寝台下段に乗ったことがあるが、もちろん普通に上体を起こすことはできず、中段の底と窓の間に隙間があるため、そこに頭をねじ込んで晩酌を続けたことがある。中段はさらに悲惨で、天井が円形になっている上段に至っては独房か蚕棚か、といった感じである。
 しかしこの「パン下」は、読んで字のごとく「パンタグラフの下」にある寝台なのである。物理的に三段分の高さがないため二段しかなく、下段は他と同じであるが、中段に関しては他の中段の1.5倍くらいの高さがあり、普通に座ることが可能な場所なのである。そして、料金はもちろん他の中段と同じ5,250円である。この「きたぐに」には6つしかない特別席であり、あまり乗車率が高くない今日も、この「パン下」だけはそれを知る人たちによって満席であった。

@パン下とは?

 車内には旅行者らしき人もいるが、その多く(半分以上?)は、カメラ片手の鉄道ファンのようである。私は中段の寝台に腰を落ち着かせ、発車前から惣菜をアテにして酒を飲み始めた。中段にも小さな覗き窓が付いており、そこから外を垣間見るのもなかなか楽しい。
 22時59分、定刻より1分ほど遅れて新潟駅を出発した。それから、昔懐かしいオルゴールで鉄道唱歌が流れ、車内アナウンスが始まる。電車らしく走り出しはスムーズであり(寝台は客車がほとんどであり、電車は珍しい)、パンタグラフのすぐ下にいるが、その音はほとんど気にならない(「パン下」は音が気になる、という口コミを聞いたことがあったのだが、私には該当しなかった)。多少の揺れは気になるが、それは車両自体が古いことが影響しているのかもしれない。

@小窓から覗き込む

 新津を皮切りに、加茂や東三条に到着しては出発していくが、その停車時間はほとんどないに等しい。急行であるため停車駅も多く、夜中の2時から4時にかけても富山や金沢や福井などに停車をしていく予定である。夜勤の人件費などを考慮すると、夜行列車が淘汰されていくのも仕方がないのかもしれない。
 明日の到着も早いため、酔いどれたまま、すぐに寝てしまった。

■2012.1.14
 5時53分、オルゴールの鉄道唱歌の音で目が覚めた。列車は定刻で草津付近を走行しているが、夜はまだ明けておらず、小さな覗き窓から見える外もまだ暗い。
 身支度を整えてからはしばらく寝台で座っていたが、新大阪も近づいてきた頃に、荷物を纏めて先頭車両の方まで歩いてみることにした。B寝台は下段がほぼ埋まり中段はほんの一部、上段は使われていないようであった。A寝台には下段の空きもあり、グリーン車には3人だけ(もしかしたら、寝台の客が来て座っているだけかもしれない)、自由席もガラガラで、ほとんどの客が4人ボックス席を占領しており、それでもまだ空いているところもあった。

@自由席の場合、頭上には畳まれた寝台がある

 淀川を渡り、列車は定刻の6時49分に大阪に到着した。ホームにいる「撮影隊」もあまり多くなく、やはり、このくらいの平和さがちょうど良いように思える。

 さて、今日の夜は、やはり今春で消えてしまう寝台特急「日本海」で青森に行く予定であり、吝嗇家の私にしては珍しくA寝台を押さえてある。さらに明日は、東北新幹線の「グランクラス」で東京に戻るという大計画である。
 夕方まで時間があるが特にすることもないため、まずは尼崎駅近くにある安価なスーパー銭湯に行ってさっぱりとする。その後は、西宮にある私の母校(芝生が有名なところ)に行き、学生時代は一度も行ったことがない学内のステーキ屋に行ってみたりした(母校卒業生なら、「あれか」とわかるだろう)。

@「あれ」です

 それでもまだ、時刻は昼過ぎである。携帯で秋田の大館にある弁当屋に予約を入れてから(朝の7時過ぎに「日本海」のデッキまで配達してくれる)、阪急と地下鉄を乗り継いて四天王寺へ行った。事前に調べた限りでは、今日は「どやどや」という奇祭(舞い降りてくる御札を奪い取る)が行われる予定である。

@祭りの前の静けさ(四天王寺)

 「どやどや」は14時半から始まり、群衆に揉まれながらそれを見ていたところ、滅多に鳴らない私の携帯が震え出した。取ってみると秋田の弁当屋からで、「日本海が運休になったみたいです」とのことであった。運休もショックであったが、わざわざ連絡をくれた弁当屋の律義さに頭が下がる思いである。この連絡がなければ、出発直前に大阪に行くまで気づかず、その後の対応も遅れているところだった。次回、いつの日か大館に行くことがあれば、必ず買わなければならないだろう。

@がーん!

 急いで大阪に戻り、払い戻しの手続きをした。JR東日本でしか手続きができない切符も含まれており、その切符に関しては後日でも無手数料で払い戻しができるような手続きをしてくれた。

 さて、予定外になってしまったが、大人しく東京へ戻るしかない。「日本海」の廃止まではあと2か月、無理をして週末にまた出かけることも可能ではあるが、今から6年前(まだ「日本海」が2往復体制だった頃)、当時は函館までだった運行ルートが青森までに短縮されることが決まり、実はその際に乗ったことがある。A寝台に乗れなかったのは残念だが、無理をすることもないだろう。
 その後は、大阪駅前ビルで格安の新幹線切符を捜し歩き(実は店舗によって価格が違う)、阪神の地下で「いか焼き」をお土産に買い、意外(?)なことに私にとっては初体験であるN700系の「のぞみ」(16時37分発)で東京へと戻った。

@日本海(函館駅にて撮影したもの)

 

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