湧網線今昔(+他の廃線跡や鐡ネタも)

■はじめに

 私事ではあるが、いくら「旅好き」といっても年間に使用する旅費についてはある程度の枠は決めている。今年は海外に行き過ぎたためもうその限度を超えてしまっており、年末までは大人しくしているつもりであったが、航空会社のツアーを見ると、女満別空港往復1泊2日で2万5,900円というのを見つけてしまい、うっかりと決済してしまった。
 さて、行くと決めたからには、旅の内容をどうするかが問題である。この辺り(オホーツク海近辺)は、様々な形式の旅(国鉄、JR、ツーリング(オートバイ)、レンタカー、自転車、徒歩)で何度も訪問しており、これといった新しいネタがない。
 そこで思いついたのが、湧網線跡の再訪である。

 私の旧いアルバムには、とある駅の一葉の写真がある。今から27年前の1986年、中湧別駅で撮られたものである。私にとっては初めての大がかりな一人旅(当時高校2年生)で、その際に撮影したものである。残念ながら、湧網線はその翌年には廃線となってしまった。
 その後、90年代後半にツーリングで訪れた際には廃線跡を訪問してみたし、また路線バスやレンタカーで周ったこともある。部分的には自転車でも訪問しており、もう「お腹いっぱい」なネタではあるが、ずいぶんとご無沙汰の場所もあるので、再度確認することにしたのである。2010年に湧網線の代替バスが廃止になってしまったこともあり、いったいどんな状況になっているのか気になっていたというのもある。

 最初は、女満別空港から「隠れた空港連絡駅」である西女満別駅まで歩き、そこから北見、遠軽を経由して紋別へ行き宿泊。翌日はバスを乗り継いで計呂地まで行き、そこから先はもうバスがないため7時間ほど歩いて栄浦まで行き、そこからバスに乗って網走へ出ることを考えていた。
 しかし、もう12月手前となり、朝晩は氷点下になる季節である。16時以降は暗くなってしまうような季節であるし、あまり長時間の徒歩旅(+本数が少ないゆえの待ち時間)はしんどいであろう。あれこれ検討した結果、出発の4日前になって考えを変えてレンタカーを予約してしまった。

@中湧別駅にて(1986年撮影)

■2013.11.23
 早朝に羽田空港を飛び立ち、女満別空港へ。レンタカーの手続きを済ませ、まず向かったのは網走市内の大曲地区にある公園である(始発という意味では網走駅まで行くべきであろうが、もう何度も訪問している駅なので今回はパス)。
 湧網線の網走市内(大曲)から常呂までは、「オホーツクサイクリングロード」として整備されている。私は8年前(2005年)に折り畳み自転車を持参してここを走破したこともある。

@ここから廃線跡です

 しばらく左手に網走湖が続き、続いて右手には能取湖が見えてくる。私の旧いアルバムにもこの辺りと思われる写真が一葉収められている。なお、湧網線に関する旧い写真は、これを含めても2枚のみである。当時はフィルム時代であり、小遣いの限られていた私は旅行先での撮影枚数もかなり抑えていた。

@能取湖(のはず)(1986年撮影)

 しばらくすると、卯原内駅跡が右手に見えてくる。私にとってはお馴染みの施設であるが、係留されているSLと客車はすでに冬支度でカバーに覆われてしまっていた。駅舎の2階に小さな鉄道資料室があるが、鍵は1階にある喫茶店が管理しているという。しかし、残念ながらその喫茶店が営業していないので諦めざるを得ない。
 ちなみに、近くにはサンゴ草群落があるので、初めて訪れるのであれば9月がお勧めである。

@北海道はもう冬

 その後も廃線跡に沿うように国道を走り続け、常呂に到着した。バスターミナルの2階には鉄道資料が展示してあるが、階段に鍵が掛かっており「係員まで」のようなことが書いてある。しかし、窓口に人がいないため入ることができなかった。
 ここには山のようにネタを積み上げたちらし寿司を出す店があり、私も13年前(2000年)に食べたことがあるので再度試してみたいところであるが、まだ10時過ぎである(店の開店は11時)。結局それは諦め、廃線跡巡りを続けることにした。
 サロマ湖から逸れしばらく行くと、知来に辿り着いた。駅跡はゲートボール場となっており、駅舎も待合室として再利用されている。何よりも、駅前だった店に未だに「知来駅国鉄乗車券発売所」という看板が掛かったままであるのが嬉しい。

@駅前であったことの証し

 その後も廃線跡を辿り続け(といってもただ単にレンタカーで走っているだけだが)、続いて佐呂間駅跡に辿り着いた。ここは公園として整備されており、車両が係留されており小さな鉄道資料館も併設されている。鍵は閉まっているが、近くの食堂に連絡すると開けてもらえる(私は前回の訪問時に開けてもらったので、今回は窓の外から見るだけにした)。

@展示も充実しています

 湧網線の路盤はここからサロマ湖へ再度戻るが、完全に並走する道路はない。なので少し迂回しながらサロマ湖へ出て、すぐに計呂地方面へは行かず、そのまま常呂方面へ少し戻っていった。昼近くなり、常呂のちらし寿司もパスしてしまったので、他に気になっていた「ほたてバーガー」を出す店へ行くためである。
 件の店(本来は直売所)は、すぐに見つかった。そそくさと注文し、いそいそと頂く。

@美味しかったです

 さて廃線跡巡りに戻る、…と思ったが、地図を見ると「サロマ湖展望台」なるものが近場にあるようである。ダート(砂利道)で10キロということでロードバイクでは難しいが、今回はレンタカーである。思い切って、そこへ行ってみることにした。
 南側の入口から入ったのであるが、これは失敗であった(結果論であるが、北側のダートは締まっていたが、南側はかなり砂利が浮いており、うっかり間違えると谷底に転落する危険性もあった)。

@展望台より(パノラマで撮るべきでした)

 砂利道を下り、近くにあった道の駅で「サロマ湖の牡蠣焼き」を衝動買い(食い)し、やっと廃線跡巡りに戻った。
 最初に現れるのは、計呂地駅跡である。幸い、まだ冬支度にはなっておらず、客車の姿を拝むことが出来た。
 小さな資料室があるが、鍵を借りるためには電話で連絡しなければならないらしい。そこまでしてもらうのも悪い気がするので、窓の外から眺めるだけにした。

@こんな客車で湧網線を走ってみたかった

 さて、次は芭露駅である。1997年にツーリングで来た際には、駅近くにある無料宿(併設する食堂で食事をすることが条件)に泊まったりしたこともあり、私にとっては思い出の多い集落である(駅舎自体も、無料宿として開放していた)。その後のバス旅などでも、芭露の駅舎や無料宿を目にして、懐かしい思いに浸ったものである。
 …ということを考えてふとナビを見ると、もう芭露の集落を過ぎてしまっているではないか。おかしいなと思って数キロ戻ってみたが、見慣れた建物が、どちらもどこにも見当たらないではないか。
 後になって調べたのだが、芭露の駅舎は2006年に解体されてしまったらしい(無料宿については不明)。なんだか、「思い出を失う」ようで、寂しい限りである。

@無料宿に泊まった翌朝、サロマ湖まで歩いて朝日を拝む(1997年撮影)

 その後はひたすら国道を走り続け、中湧別に辿り着いた。駅周辺はきれいに整備されており、駅舎の一部も残っている。辺りはすっかり変わってしまったが、駅名標だけが時代から取り残されたように、昔のまま吊るされていた。

@いつまでも残っていてほしい

 その後は湧別までの名寄本線跡(「オホーツク・リラ街道」と名付けられていた)を走り湧別駅跡まで行き、その足で今日の宿泊地である紋別へ向かった。
 ただその前に、少し寄り道ということで、廃線跡ならぬ廃空港(?)跡へ寄り道してみることにした。
 以前、折り畳み自転車で北上していた際に、地図情報が古くて昔の紋別空港に行ってしまったことがあるのである。なので「再訪」になるのであるが、空港跡は試験コースになっており、新空港へ行くためタクシーを呼んでもらった国道沿いの店も閉店して廃墟になってしまっていた。なんだか、またしても思い出をなくしてしまった気がした。
 紋別のホテルに投宿してからは、今晩の食材探しである。私は「まったりした食感」が苦手でホタテの刺身があまり好きではなかったのだが、オホーツク沿岸で「新鮮な刺身は繊維質を舌で感じることができる」ということを知って以来、逆に好物の一つとなっている(新鮮であることが条件)。それを手にするためには、高い店に行く必要はなく、地元で旬の時期であればスーパーで充分である。

@刺身尽くし!

■2013.11.24
 日の出時刻(6時34分)に合わせてホテル9階にある展望台に行ってみたが、残念ながら厚い雲があって朝日は拝むことができなかった。
 今日は、湧網線以外のいくつかの廃線跡や廃駅跡を巡ることにしている。7時過ぎにホテルを出発し、まずは名寄本線の興部駅跡へ向かった。
 しばらくすると、国道はオホーツク海に沿い続ける。廃線跡もそれに沿っており、所々では鉄橋などが残されたままになっている。こんな地理的条件であれば、流氷の時期に観光列車でも走らせたらさぞ人気が出るだろうと思われるが、残念ながら鉄道というのは観光で持つものではないので(あくまでも中心は生活や仕事での利用)、廃線は仕方ないであろう。

@廃線跡の鉄橋(名寄本線は乗車したが、興浜北・南線や天北線は未乗車のままなくなってしまいました)

 しばらくして、興部駅跡(現在は道の駅)に到着した。ここにも車両が係留されており、夏季などは無料宿として解放されているので私もツーリングの際に泊まったことがある。残念ながら冬支度でカバーされていたが、残っているだけでも充分である。
 続けて、名寄本線跡沿いに西へと向かった。所々に廃線跡があり、何より印象的であったのが、中興部駅がそのまま残っていることであった。それなりに大きな集落では再開発によって旧い駅舎が解体されてしまうが、ここのように周囲に数戸しかないような集落では、過疎化が逆に幸いして旧いものがそのまま残っているのである。

@なくなりませんように

 しばらくすると、西興部の集落に到着した(「町」であるため、駅跡は再開発されて綺麗になっていた)。ここから先しばらくすると、天北峠に差し掛かる。1986年にこの区間を乗車した際は、峠に差し掛かるとやけに遅くなったので、運転席まで行って覗き込んでみると時速30キロであった記憶がある。
 そちらまで行ってみたい気もするが、峠はすでにアイスバーンになっているであろうし、戻ってくるのも大変なので、ここからは南下することにしている。
 約30分ほど南へ走り続け、到着したのは北見滝ノ上、渚滑線の終着駅があったところである。ここに来るのは2回目であるが、駅舎は今日も閉まっており、中にある鉄道関係資料を見ることはできなかった。

@いずれにせよ、駅があることが嬉しい

 行く先々で「鍵が閉まっている」状態であるが、これには私の側の問題もあるかもしれない。というのも、いつも旅費が安いシーズンに来ており、観光シーズン(連休やお盆)には来たことがないのである。そういう時期に来れば、少しは違うのかもしれない。
 さて、これからは遠軽方面に行くのであるが、ショートカットする道路は工事中断になってしまったので、オホーツク海まで戻らなければならない。紋別、中湧別を経由し、遠軽で瞰望岩に立ち寄り、生田原で評判の良いジェラートを頂き、さらに南下していった。目指すのは常紋トンネルである。

@長距離移動、ジェラートで一息

 常紋トンネルに関する詳細な情報は、他のネット情報を参照してほしい(タコ部屋における重労働や、トンネル改修の際に大量の人骨が発見されたことなど)。いずれにせよ、たいていは噂話に納まる「人柱」などが、ここでは本当に行われていたようなのである。
 国道沿いには慰霊碑があり、それはすでに訪問済みであるが、今回はレンタカーであることを活かしてトンネルまで行ってみることにしている。
 ダートを走り続けること約15分、スノーシェルターが見えてきた辺りで車を降り、そこから5分ほど歩いてトンネル入口へ向かった。私のようなことをする人もそれなりいるようで、線路内に入らないように注意する看板などが各所に置かれている。
 シェルターの中を通り(暗いのでかなり怖い)、トンネル入口へと辿り着いた。

@いわゆる「心霊スポット」でもあるので、霊感の強い人は近づかない方がよいでしょう(熊も出るので、春から秋まではそういう面でも要注意)

 ダート道を戻り、国道沿いにある慰霊碑にも寄ってみた。信じ難いことであるが、この高台は「金華小学校跡」となっている。辺りを見渡すと、駅前の集落ですら人の気配がするのは数戸だけでほとんどは廃墟となっており、とても小学校が成り立つような人口はない。全国各地で過疎化が問題になっているが、その中でも最たる場所であるといえよう。
 昼過ぎになったので、少し遠いが津別にある店まで1時間ほどかけて行き、そこで評判の豚丼を頂いた。

@北海道東部といえば、これ

 その後は、今回最後の廃線跡巡りということで、相生線の終着駅である北見相生駅跡へ向かった。山のふもとにあるので心配していたが、まだ冬支度になっておらず、すべての展示車両を見ることが出来た。2度目の訪問であるが、転車台の跡地らしきものを見つけたりして、新たな発見もあった。
 道の駅も併設されており、どうやら豆腐が有名なようである。豆腐を東京まで持って帰ることはできないが、厚揚げとおから(後者は無料)を持って帰ることにした。

@ここも鉄道で来てみたかった

 さて、時刻はまだ14時過ぎで、飛行機の時刻(20時25分)まで時間はたっぷりある。しかし道東の日は短く、16時過ぎには暗くなってしまう。よってこの後はまっすぐ空港方面へ戻り、女満別温泉で日帰り湯に浸り、地元のスーパーで自分用のお土産を買うだけである。

 

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